大阪地方裁判所 昭和59年(わ)4576号 判決 1988年10月25日
《本籍・住居》《省略》
廣田雅晴
昭和一八年一月五日生
右の者に対する強盗殺人、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反被告事件につき、当裁判所は、検察官西尾精太出席の上審理し、次のとおり判決する。
主文
被告人を死刑に処する。
理由
(罪となるべき事実)
一 被告人の身上・経歴
被告人は、昭和一八年一月大阪市において、父甲野太郎(昭和四三年死亡)、母花子間に、三男二女の同胞中の第三子二男として生まれ、一歳のころ家族共々千葉県山武郡成東町に転居し、同地で農業を営む両親に養育され、地元の小、中学校を経て昭和三六年三月同県立春野高等学校普通科を卒業し、東京都内で電気溶接工や司法書士事務所事務員として稼働した後、関西に赴き、昭和三九年に京都府警察官採用試験に合格して同年一〇月一日同府巡査に採用され、翌四〇年九月同府警察学校を終了して同府九条警察署警ら課に配置され、同署下殿田派出所等で勤務し、昭和四七年三月巡査部長に昇任して峰山警察署外勤課に、次いで昭和四九年三月以降西陣警察署外勤課等にそれぞれ配置換えとなり、昭和五二年三月から同署十二坊派出所において勤務していたものであり、その間の昭和四二年四月に結婚して廣田姓になるとともに、肩書本籍地に居住し、妻との間に三児をもうけた。
被告人は、右西陣警察署十二坊派出所に勤務していた昭和五三年七月、同署内から実包入りけん銃を盗み出した上、これを用いて京都市南区所在の札の辻郵便局等において金員を強取しようとするなどの窃盗、銃砲刀剣類所持等取締法違反、火薬類取締法違反、強盗傷人、強盗未遂事件を起こして逮捕され、同月二四日、懲戒免職処分を受け、昭和五六年二月に大阪高等裁判所で右各罪により懲役七年に処せられ、同年四月から加古川刑務所において服役し、仮出獄許可決定により、昭和五九年八月三〇日、同刑務所を出所した。
二 殺害された被害者両名の身上等
乙山一郎巡査は、昭和二九年四月山形市で生まれ、昭和四八年三月山形県立山形南高等学校を卒業後、私立竜谷大学に進学し、昭和五四年三月に同校を卒業して同年四月京都府巡査に採用され、同年九月西陣警察署外勤課外勤第二係配置となり、昭和五六年三月から同署十二坊派出所に勤務し、その間昭和五五年に結婚して二児をもうけたものであるが、周囲の者から職務熱心で責任感が強いとの評価を得ており、上司や同僚及び地域住民の信望も厚かった。
乙川二郎は、昭和三五年一一月大阪市で生まれ、昭和四〇年に両親が離婚したため、父親に引き取られて一時は養護施設に預けられるなどし、昭和五一年四月大阪産業大学付属高等学校に進学したが、父親が出奔して所在不明となったことなどから同校を二年次で中退し、その後ラーメン店店員、自動車販売会社のセールスマンなどをして稼働し、昭和五九年三月から、金融業を営む宝産業株式会社京橋支店で勤務していたものであり、その間昭和五五年に結婚して一児をもうけていた。
三 本件各犯行に至る経緯
被告人は、前記のとおり昭和五九年八月三〇日に加古川刑務所を出所し、同日は家族とともに滋賀県大津市内のホテルで一泊したが、翌八月三一日、国鉄(現在のJR各社。以下当時の呼称に従う。)京都駅において、仮出獄前から用意しておくよう頼んでいた現金二〇万円を妻から受け取った上、実母とともに新幹線で東京に向かい、千葉保護観察所に出頭した後、同日午後四時ころ、帰住先である千葉県山武郡《番地省略》の実母方に着いた。九月二日夜、被告人は実母に対し、真実は京都へ行くつもりであったのに「明日東京へ仕事を探しに行く。」と言って、翌三日午前四時四〇分すぎころ実母方を出て、国鉄総武線成東駅午前五時一八分始発の電車で千葉駅に向かい、同駅から東京駅に出て新幹線を利用して午前一〇時前後京都駅に到着した。
被告人は、当時強盗をしてまとまった金員を得ようと考えていたことなどから、これに用いる凶器として、同一〇時三〇分ころ、京都市上京区千本通上長者町下ル華堂前之町九七番地所在の丙丘刃物金物店でステンレス製包丁一本を購入し、その後間もなく、同店から約三七〇メートル南の同区千本通下立売下ル稲葉町四六六番地所在の丙川銃砲火薬店に行き、洋弓の一種であるボウガンについて店員の説明を受けた後、同一〇時五六分ころ、ボウガン(全長約七九センチメートル)一丁、ボウガン用の矢(長さ約三六センチメートル)六本、射撃用皮手袋一双及びサングラス一個を購入し、これらの品物をそれまでに入手していた観光者用の手提げ袋の中に入れた。ところが、右ボウガンが長くて目立つため、銃床部分と先台部分を切り離そうと考え、同一一時すぎころ、再び右丙丘刃物金物店に赴いて折り畳み式のこぎり一本を買った上、同一一時三〇分すぎころ、右丙川銃砲火薬店に行って店員にボウガンの撃ち方等を再度説明させた後、「花田」の偽名を用いて右手提げ袋に入れたボウガン等を店員に預け、同日午後六時ころ以降同店を訪れてこれを受け取った。
その後、被告人は、警察官をおびき出してその携帯するけん銃を奪取しようと考えて同市右京区嵐山所在の亀山公園付近に行き、同六時五〇分ころ、近くの公衆電話から太秦警察署に電話をかけて同署嵐山派出所につないでもらい、これに出た同派出所勤務の警察官に対し「亀山公園に放置バイクがある。昨日から言っているのに何で見に来んのや。中央広場の看板がある所や。俺が見てたるさかい来いよ。」などと虚偽の申告をして、同公園の南側入口付近で警察官を待ったが、結局右待ち伏せの場所で警察官と出会うことができず、同七時五〇分ころ、同公園東方に位置する渡月橋北詰からタクシーに乗り、同市北区の千本北大路交差点付近で降りた。
次いで被告人は、同様の目的で再度警察官のおびき出しを企図し、同八時三〇分ころ、前同様、同交差点近くにある同区衣笠北荒見町一五番地の紙屋児童公園付近の公衆電話を用いて西陣警察署に電話をかけて同署十二坊派出所につないでもらい、これに出た同派出所勤務の警察官に対し「児童公園の前の大槻だが、公園の前に長い間バイクが放置してある。前から言ってある。早く来てほしい。」などと虚偽の申告をして、同公園で警察官を待ったが、同九時ころに警察官が同公園に赴いたものの、それまでに同所から離れたため、結局警察官と会うことができなかった。
そこで被告人は、警察官をおびき出すことをいったんあきらめたが、被告人がかつて九条警察署下殿田派出所に勤務していた昭和四二、三年ころに職務上何度も出入りしていた同市南区《番地省略》所在の丙山質店の経営者が老夫婦であることを知っていたことから、同人らを包丁で脅すなどして金員を奪おうと考え、同一〇時ころ、同質店近くの公衆電話から同店に電話をかけ、丙山夏夫に対し「唐橋派出所の前田という者だが、職務質問を受けている男が持っている腕時計等をそちらの店で買ったと言っているので、確認のために派出所まで来てほしい。」などとうそを言って、同人を外におびき出そうとしたが、同人にこれを断られたためいったん電話を切り、同一〇時二〇分ころ、再度同店に電話をかけ、同人の妻秋子に対し「今からその男を連れて行くので、店を開けておいてほしい。」などと言ってこれを了承させた上、同店入口前に立ち、入口のガラス戸越しに店内の鉄格子付カウンター内にいる同女に対し外に出てくるよう求めたが、同女がこれに容易に応じようとしなかったため犯行を断念し、同一〇時三〇分ころ、同店前から立ち去った。
その後被告人は、同市内の九条警察署管内等を徘徊するなどし、翌九月四日午前一時三五分ころ、国鉄京都駅八条口のタクシー乗り場でタクシーに乗り、同市東山区三条大橋東方の「京都スポーツサウナ」へ行って同所で宿泊し、同七時四〇分ころ、同サウナを出た。
また、前記丙川銃砲火薬店で購入後同店に預けていたボウガンやその矢等については、被告人がこれを同店で受領してから翌四日昼ころまでの間に、ボウガン本体を前記折り畳み式のこぎりを用いて銃床部分と先台部分とに切り離していたが、結局これを凶器として使用することを止めることにし、その弓部分共々、同市北区紫野北舟岡町所在の船岡山公園東側の建勲神社境内山林中に投棄し、矢五本を同市下京区の国鉄丹波口駅近くの道路脇の植え込みの中に捨て、射撃用手袋もその付近の空き地に捨てた。
四 本件各犯行
被告人は、
第一 前述のように昭和五九年九月三日けん銃を奪うため二回にわたり警察官をおびき出そうとしたが、結局いずれも失敗に終わり、また、前記丙山質店でも金員を奪うことができなかったことから、更に、強盗をしてまとまった金員を得るためその犯行に用いる凶器を入手しようと考え、警察官を殺害してその携帯する実包入りのけん銃を強取することを企て、同月四日午後零時四〇分ころ、京都市北区紫野北舟岡町四二番地の船岡山公園正門付近の公衆電話を用いて京都府西陣警察署十二坊派出所に電話し、これに出た乙山一郎巡査(当時三〇歳)に虚偽の申告をして同巡査を同公園内におびき出し、同零時五〇分ころ、同公園内山頂広場南側斜面の路上において、被告人の右申告を真実のものと誤信して単独で同所に赴いた同巡査に対し、所携の前記ステンレス包丁(刃体の長さ約一六・九センチメートル)でその右大腿部内側や右肩内側等多数箇所を突き刺すなどして同巡査に右大腿動静脈切断等の傷害を負わせ、その反抗を抑圧して、同巡査携帯の実包五発が装てんされた警察用ニューナンブ回転弾倉式けん銃(口径九・六ミリメートル)一丁を強取し、更に、うつ伏せに倒れている同巡査に対し、同けん銃でその背部を狙って弾丸一発を発射してこれを同巡査の左背部に命中させ、間もなく、同所において、同巡査を前記傷害に基づく失血により死亡させて殺害した、
第二 右けん銃を用いて金融業者から金員を強取しようと企て、京阪電車で京都から大阪に至り、同日午後四時ころ、大阪市都島区東野田町《番地省略》丙海ビル二階所在の金融業丙谷産業株式会社(通称「ローンズ丙谷」)京橋支店(支店長丙田一夫)において、カウンター内の自席に座って新聞を読んでいた同店店員乙川二郎(当時二三歳)の前にカウンター越しに立ち、同人に対し、右手に持った右けん銃を突きつけ、「金を出せ。」と申し向けたところ、同人がこれを冗談と受け取って本気にせず、右要求に応じなかったため、この上は同人を射殺して金員を強取しようと決意し、直ちに同けん銃で同人の胸部を狙って弾丸一発を発射してこれを同人の右前胸部に命中させ、間もなく、同所において、同人を右前胸部射創に基づく胸部大動脈破綻により出血失血死させて殺害し、更に、傍にいて畏怖しきっている同店店員丙島一子(当時二六歳)に対し、「金を出せ。」と申し向け、その反抗を抑圧した上、同女から同支店長管理に係る現金約六〇万円の交付を受けてこれを強取した、
第三 法定の除外事由がないのに、同日午後零時五〇分ころから、同四時ころまでの間、前記第一の船岡山公園頂上南側斜面の路上及び前記第二の丙谷産業株式会社京橋支店等において、前記けん銃一丁及び火薬類である同けん銃用実包四発ないし三発を所持した
ものである。
(証拠の標目)《省略》
(判示各事実につき被告人を犯人と認定した理由)
被告人は、捜査段階(一部起訴後を含む)においては変遷があるものの最終的には本件各犯行につき一応の自白をしていたのに対し、公判廷においては全面的に否認し、大要、(1) 本件各犯行当時、被告人は、警察官時代に一緒にいわゆる「呑み行為」をするなどして交際のあった丁川一雄という人物と行動を共にしており、判示第一の事件が発生した昭和五九年九月四日午後零時五〇分ころには、以前の呑み行為の客に対する未回収金を取り立てるため、右丁川と二人でその客の家を探して京都市内の金閣寺小学校辺りにいたから、アリバイがある、(2) その後京阪電車で京橋駅に赴いたが、被告人と丁川が同駅に着いたのは、判示第二の事件が発生した後のことである、(3) 本件各犯行を認めた各自白調書については、いずれも大阪府警の取調官の暴行に耐えかねてやむなく虚偽の自白をしたものである旨弁解し、弁護人も、被告人に対する各目撃証言の信用性は低く、被告人の前記自白は任意性及び信用性がないこと、その他本件各犯行と被告人とを結びつける的確な証拠が存在しないことなどを理由に被告人は無罪である旨主張している。
当裁判所は、審理を遂げた結果、本件各犯行の犯人が被告人であることは疑いを容れないとの結論に達したものであり、以下、当裁判所の認定について説明を加えることとする。
なお、説明の便宜上、判文及び引用の証拠につき、以下の略語及び用語例を用いることとする。
一 判示第一の船岡山公園における乙山巡査に対する強盗殺人事件を「京都事件」と、判示第二の丙谷産業株式会社京橋支店における乙川二郎に対する強盗殺人事件を「大阪事件」という。
一 証人または被告人の供述については、公判廷におけるものと公判調書中の供述記載部分とを区別しない。
一 証拠物の押収番号は、大阪地方裁判所昭和六〇年押第一〇一号の符号一ないし三三であり、その表示は符合のみをもってする。
一 年月日のうち、単に月日のみを挙げる場合は、昭和五九年の意とする。
第一京都、大阪両事件の概要及び本件捜査の経緯
一 京都事件について
前掲関係証拠によると、以下の事実を認めることができる。
1 乙山巡査の行動及び京都事件の発覚経過等について
当時西陣警察署十二坊派出所に勤務していた乙山巡査は、九月四日午後零時四二分ころ、昼の休けい時間中であったのに、携行の署活系携帯無線機で同警察署指令室係員に対し、これから警らに出発する旨を送信し、そのころ、同派出所前からバイクに乗って千本通りを北に船岡山公園の方向に向かったが、同零時五〇分ころ、同巡査から、右指令室係員に対し、無線機のプレストークボタンを押さえたままの状態で「一一五から西陣」との送信が二、三回繰り返された上、うめき声と共に「助けてくれ」との送信があり、その後右無線機の緊急発信ボタンを押したと見られる緊急信号を最後に同巡査の送信が途絶えたため、直ちに同指令室において警ら中の警察官等に対し十二坊派出所管内を検索するよう指示したところ、同一時六分ころ、京都市北区紫野北舟岡町四二番地の船岡山公園山頂広場南側斜面の路上において、全身を鋭利な刃物で刺され、うつ伏せに倒れている同巡査が発見され、更に同巡査携帯のけん銃が奪取されていることが判明し、同一時九分、京都市全域及び近隣府県に緊急配備の指令が出されるとともに、直ちに現場鑑識活動や現場周辺地域における聞き込み等の捜査が開始された。
同巡査が当時携帯していたけん銃は、口径九・六ミリメートルのニューナンブ回転弾倉式けん銃であり、実包五発が装てんされていた。
2 現場及び乙山巡査の死体の状況等
(1) 現場の状況
乙山巡査が発見された船岡山公園山頂広場南側斜面の路上の現場は、十二坊派出所から北東に直線で約二五〇メートルの距離に位置し、同派出所からのオートバイによる所要時間は、約二分三〇秒である。同公園は、同派出所の重点警ら地域となっていたが、警察官が休けい時間中に警らすることは、申告事案でもない限り通常は考えられないことであった。
乙山巡査は、発見された当時、巾員約三メートルの道路のほぼ中央付近で、両足を北西に、頭を南東に向け、左顔面を地面に付けて「く」の字形に左側臥の状態で倒れており、その付近の路上には、同巡査が着用していたヘルメット、右足側短靴、メガネ等の外、同巡査携行の無線機と警棒が比較的広い範囲に散乱し、また一辺が数十センチメートル大の大きな血痕が数箇所、小さい血痕が多数見られ、同巡査の頭部から東方に約六メートル離れたところに、同巡査が乗って来たオートバイがエンジンキーを抜かれて東向きに立てられていた。
前記のとおり、同巡査はけん銃を奪われていたところ、そのけん銃の吊りひも(符二四号)が三箇所にわたって鋭利な刃物で切断されており、その一つの切断箇所に人血痕が付着していた。
(2) 死体の状況及び使用凶器について
同巡査は、発見されて間もなく病院に搬送され、午後一時四六分に死亡が確認されたが、同一時ころには既に現場において死亡していたものと認められる。同死体に存する主な損傷としては、顔面、左肩内側、右前胸部、左腕、両手指、右大腿部内側等に多数の刺創ないしは刺切創が、左背面に盲管射創(射入口)がそれぞれ認められ、また、顔面、両肘及び両膝に、砂様のもので圧迫、擦過したことによって生じたと考えられる擦過傷ないしは圧迫痕が認められた。同巡査の死因は右大腿部内側刺切創に基づく右大腿動静脈切断などによる失血死である(なお、射創自体も致命傷となりうるものであったが、射創の周辺部に出血が少なく、既に生じていた他の損傷箇所からの出血により血圧が著しく低下した状態のもとで右射創が生じたものである。)。各刺切創につきその成傷凶器としては、各損傷の創管の状況等から見て、刀背のある鋭器で、先端から約一二センチメートルの箇所で幅が約五・六センチメートル以下であり、同先端から約六・五センチメートル以内の箇所で幅が約三・七センチメートル以下の形状を有するものと推定できる。
また、射創については、射入角度から見て、同巡査の背面左下から前面右上方向に弾丸が発射されたものであり、同巡査の体内に残されていた弾丸(符一八号)は、その形状特性や腔綫痕幅及び腔綫痕の傾き角によると、口径〇・三八インチの警察用ニューナンブ回転弾倉式けん銃から発射されたものであった(同弾丸が乙山巡査携帯のけん銃から発射されたものかどうかという点については、後述する。)。
3 小括
以上からすると、乙山巡査は、昼の休けい中に何者かに電話で呼び出され、午後零時四二分ころオートバイで十二坊派出所を出発して右被害現場に赴き、オートバイを停めて立て、そのエンジンキーを抜いて下車した後襲われたものであること、同巡査の身体に存する損傷の状況、携行物等の散乱状況及び路上の血痕の状況から見て、同巡査は、前記の形状を有する鋭利な刃物で多数回攻撃を受けてこれに抵抗し、犯人と相当程度抗争状態になったこと、したがって、犯人はその着衣や身体の露出部に同巡査の血を付着させていたこと、その後、犯人は、右刃物で同巡査携帯のけん銃の吊りひもを切断して右けん銃を奪った上、うつ伏せに倒れている同巡査の背後から、その背中を狙って弾丸一発を発射して逃走したことがそれぞれ推認できる。
また、乙山巡査が攻撃を受けた時刻は、同巡査が緊急発信をした午後零時五〇分ころと見られる。
二 大阪事件について
前掲関係証拠によると、以下の事実が認められる。
1 事件の発覚経過
同日午後四時ころ、大阪市都島区東野田町《番地省略》丙海ビル二階所在の金融業丙谷産業株式会社京橋支店(以下、「ローンズ丙谷」という。)において、大阪事件が発生し、現場にいて同事件を目撃した同店の従業員丙島一子が同四時二分ころ一一〇番通報をし、直ちに警察官が同店に駆けつけ、同事件を認知した。
2 現場の状況
右丙海ビルは、京阪電車京橋駅の北西側に位置し、東西に通ずる道路北側に面した南向きの六階建て賃貸ビルである。同ビル二階に「ローンズ丙谷」が、四階に金融業「ローンズ丙林」京橋店(以下、「ローンズ丙林」という。)がそれぞれ店舗兼事務所を構えており、いずれも南側窓ガラスに店名が大きく表示され、また、店名を表示した看板も同ビル前面西側に掲げられていた。同ビル内の北側に階段及びエレベーターがあり、南側に各店舗兼事務所が位置している。
同ビル前の道路の向かい側に同ビルから約一五メートル隔てて大阪府都島警察署京橋派出所がある。
3 死体の状況及び使用凶器について
乙川二郎の死体は、「ローンズ丙谷」店内のカウンター式事務机の南側床上において、頭部を南西方向に向け、右頬を床面に付けてうつ伏せに倒れた状態で発見され、その頭頂部に接して四つ折りの新聞が落ちており、同新聞には弾丸が貫通したことによると見られる穴が空いていた。
同死体に存する損傷で致命傷となったものは、前胸部射創であり、弾丸が右第一肋骨胸骨接合部を貫通して胸腔内に入り、胸部上行大動脈を射通して左肺等を貫通し、更に左背面第八肋骨下縁を射破して背部筋層に終わる盲管射創であって、同人の前方右斜め上から左斜め下後ろの方向に射ち込まれたものである。同人の死因は、前記の胸部大動脈破綻による出血失血死であり、ほぼ即死と見られる。
同人の体内に残されていた弾丸(符一九号)は、京都事件につき乙山巡査の体内から摘出された弾丸と同様、口径〇・三八インチの警察用ニューナンブ回転弾倉式けん銃から発射されたものであった(これが、前記符一八号の弾丸を発射したけん銃と同一のけん銃から発射されたものであるかどうかについては、後述する。)。
三 本件捜査の経緯
前掲関係証拠及び丁丘二雄の証言(第三二、三三回公判)によると、以下の事実を認めることができる。
1 被告人を容疑者として特定した経緯
京都府警は、京都事件発生後、強盗殺人事件として西陣警察署に捜査本部を設置して捜査を開始したが、同事件の発生直後に船岡山公園の現場に臨んだ捜査員らは、犯人を推理する過程で、被害者が十二坊派出所勤務の警察官であり、被告人も前件当時同派出所に勤務していたこと、前件同様けん銃が奪われていること、同公園が前件におけるけん銃の隠匿場所の一つにされていたこと等の点から、既に漠然とではあるが、被告人の名を挙げていたところ、現場周辺地域での聞き込み捜査や通報を受けた結果、京都事件発生前後に現場付近で不審人物を目撃したとの複数の供述が得られ、その各供述に係る人物の人相、体格が被告人と似ていたため、同不審人物が京都市上京区千本中立売上ル東入ル所在の映画館「西陣大映」で清涼飲料水「リアルゴールド」の空きびんに遺留したとされる指紋について、まず第一に被告人の指紋との照合がなされ、九月四日午後三時三〇分から同四時前ころに、右各指紋が一致したとの報告がなされた。
更に、同四時ころ大阪事件が発生し、九月五日午前二時ころ、乙山巡査及び乙川二郎の両名の体内から摘出された各弾丸と乙山巡査が当日携帯していたけん銃の登録試射弾丸の三つが同一銃から発射されたものであるとの鑑定結果が出されたため、両事件の犯人が同一人であると判断され、また犯人や不審人物を目撃したとの前記丙島一子ら参考人の供述も得られた。
以上の推移の後、京都府警の捜査本部としては、京都事件の犯人は被告人であると判断し、同日午後三時ないし四時ころ、京都事件につき被告人に対する逮捕状を請求し、これが発付された。
2 被告人の逮捕・勾留
被告人は、同日午後三時四五分ころ、千葉県山武郡成東町《番地省略》の実母方の近くでタクシーを降りたところ、同タクシーを追尾していた千葉県警の警察官に成東警察署まで任意同行を求められ、これに応じて同三時五〇分ころ同署に到着し、事情聴取を受けた。
その間、京都府警察本部から同署に、被告人に対する京都事件についての逮捕状が発付されたとの通報があり、右警察官は、同五時三七分、同署において、被告人に対し右被疑事実の要旨及び逮捕状が発せられていることを告げてこれを逮捕し、翌六日午前一時五七分、被告人を京都府西陣警察署に引致した。
その後、被告人は、京都拘置所において勾留され、勾留期間延長の上、九月二七日に処分保留で釈放されたが、同日、大阪府警察本部により大阪事件で逮捕され、大阪拘置所において勾留され、勾留期間延長の上、一〇月一九日、本件各事実により大阪地方裁判所に起訴された。
3 被告人の供述の変遷経過等について
(1) 京都拘置所での取調べにおける供述内容
被告人は、当初、「京都事件についてはそのとおり身に覚えがあるので後に正直に話す。けん銃については自分自身が隠匿場所に案内して警察官に差し出す。」旨供述し(司法警察員に対する九月一六日付供述調書)、更に検察官に対しては、結局のところ、「九月三日、前刑で服役中出所したら覚せい剤の密売を手伝わないかと言われていた丁原こと丁山三雄と会い、同じく刑務所仲間の丁海四雄、丁谷五雄らと一緒に京都市内の諸所で覚せい剤の密売をし、その報酬三〇万円をもらい、翌四日も密売を続け船岡山公園頂上でも取引をし、頂上から下りていたところ、乙山巡査から職務質問を受け、丁谷が同巡査を出刃包丁で刺した。その後西陣大映等で密売をした上、丁原と二人で京阪七条から電車で京阪京橋へ行き、密売の報酬三〇万円を受け取り、更に密売を続けるため、同人と大阪市北区の特殊浴場やピンクサロンに立ち寄った後、同人から始末するよう言われて紙袋を預かり、同人と新幹線で東京に行ったが、その車中で同人から、右紙袋には『チャカも入っている』と言われた。」などと供述した(検察官に対する同月二一、二二、二三日付各供述調書)。しかし、右丁原ら三名については、裏付け捜査の結果、当時既に死亡していたり、未だ服役中であったり、また大阪周辺にはいなかったりしたことが明らかとなった。
(2) 大阪拘置所での取調べにおける供述内容
次いで被告人は、右丁原は丁田六雄という人物であり、他の二人も別の人物であるとか、丁原が乙山巡査を刺したとか、京都スポーツサウナで知り合った氏名不詳の三名と強盗することになり、その計画を練りに船岡山公園に行き、頂上から下りる途中、乙山巡査の職務質問を受けてそのうちの一人が同巡査を刺したなどと供述を変転させ、更に、一〇月四日からは、丁島外二名と共に船岡山公園頂上で強盗をする相談をし、下山途中乙山巡査の職務質問を受け、丁島が同巡査を刺した後、京阪電車で大阪の京橋へ行って同人と落ち合い、同人から八〇万円をもらい、更に京都駅八条口で落ち合って同人からけん銃を預り、同人と新幹線で東京へ向ったなどと供述するに至り、その後、同月一一日に、両事件とも被告人の単独犯行である旨自白し、同自白内容は、その後も変遷したが、被告人の単独犯行であること自体は起訴後の同月二五日付司法警察員に対する供述調書まで維持された。
第二被告人の自白の任意性について
被告人は、右に見たように、九月五日に逮捕された後、両事件との関わりについては肯定するものの、犯行自体については否認を続けていたが、一〇月一一日以降は、両事件とも自己の単独犯行であることを認める旨の自白をしているところ、弁護人は、被告人の自白には任意性がない旨主張し、被告人も公判廷において捜査官の暴行に耐えかねて自白したものであると供述しているので、右任意性の有無について検討を加えておくこととする。
一 弁護人の主張及び取調べ状況に関する被告人の供述
任意性に関する弁護人の主張及び取調べ状況についての被告人の供述は、大要、(1)被告人に対し、一〇月一日から大阪府警による本格的な取調べが開始されたが、同日、同府警の捜査官は、被告人に対し「人民新聞社を出せ」と執拗に迫り、黙っていると、土足で被告人の大腿部を踏みつけ、頭を腕で巻いて締めつけた上、被告人の耳元で「人民新聞社の誰や」と大声で怒鳴ったため、被告人が捜査官のネクタイをつかんだところ、捜査官は被告人の首を締め、被告人が苦しまぎれに捜査官の腕を噛むや、被告人に対し殴る蹴るなどの暴行を加え、たまたま、東検事が来合わせてこれを止めたため、暴行は中止された、(2)その後も捜査官の暴行は止まず、「人民新聞社を出せ」ということで、被告人に連日暴行を加え、被告人の下半身を裸にしてその陰茎を握って強制的に自慰行為をしたりし、また翌二日からは、たばこの火を手などに押しつけて火傷を負わせたりするようにもなった、(3)そして、一〇月八日か九日ころ、捜査官は被告人に対し「人民新聞社は関係ないことがわかった。大阪事件の現場のビル五階の管理人室にある防犯カメラに、けん銃を構えているお前が写っていた。」と言って今度は被告人の単独犯行ということで追及するようになり、被告人において結局暴行に耐えられずにこれを認めたが、一〇月一一日、捜査官が勝手に作成した調書に署名指印することを拒否すると、捜査官は新たに長さ約二〇センチメートル、幅約五ミリメートルの先の尖ったトタン板様の物をライターで熱した上、これを先にたばこの火で火傷を負わせた箇所に押しつけて更に火傷を負わせるという暴行を加え、また陰茎を蹴りつけ、睾丸にライターの火を近づけ、被告人が尿を床上に漏らすとその頭髪をつかんで尿に顔を押しつける暴行を加えたため、被告人はこれに耐えられずやむなく署名指印に応じた、(4)翌一二日も同様の暴行を加えられ、夜、再び熱したトタン板様の物を押しつけられようとしたので、被告人が思わず取調室のドアを開けて廊下に飛び出して逃げたところ、後ろから捜査官に蹴られたため前のガラス窓に右手を突っ込み、ガラスが割れたが、捜査官は被告人の右手親指を桟に残った割れたガラスにこすりつけて切創を負わせ、更に取調室内に連れ込み、右傷口や火傷の傷をもむなどし、以上のような取調べが起訴されるまで続いたというものであり、被告人の自白は、右各暴行により強要した結果得られたものであるというのである。
二 そこで、検討するに
1 大阪拘置所長新海眞澄作成の「弁護士法第二十三条の二第二項に基づく照会について(報告)」と題する書面(写し)、高野嘉雄作成の「通知書」と題する書面二通、堀和幸作成の「報告書」と題する書面二通(写し)、鑑定人助川義寛作成の鑑定書及び同鑑定人の口頭鑑定の結果、証人高野嘉雄、同堀和幸及び同助川義寛の各証言によると、(1)一〇月一日午後三時すぎころ、当時の弁護人高野嘉雄が大阪拘置所で被告人と接見した際、被告人から同弁護人に対し、同日午後の取調べで取調官三名から罵声を浴びせられ、黙っていると「聞いているのか」と言われ、むっとした表情をしたところ突然首を締められたり、殴られたりして椅子から床に落とされる暴行を加えられたという説明があり、被告人の右手の指や左上腕部等に擦過傷が見られ、その上着に若干の汚れが付いているのを同弁護人が現認し、大阪拘置所の被告人に関する一〇月一日付カルテには、「右手・左上膊擦過傷、右腓腹筋部挫傷(微傷)、出血なし」との記載があること、更に同月八日堀和幸弁護人が被告人と接見した際にも被告人から同様の訴えがあったこと、(2)被告人は、当時接見に来た右高野弁護人に対し、取調官から人民新聞社との関係を追及されていると何回か述べ、また、取調官から防犯カメラに被告人の姿が写っている旨言われていると述べたことがあったこと、(3)被告人は、一〇月一三日、高野弁護人との接見に際し、前日である一二日に供述調書への署名等を拒否すると取調官から殴る蹴るの暴行を受け、窓ガラスに手を突っ込んで負傷した旨訴え、右一三日に接見した堀弁護人にもほぼ同様の説明をし、大阪拘置所の被告人に関する一〇月一二日付カルテには、「両手切創及び擦過傷(右手拇指・左手小指切創)」との記載があること、(4)昭和六二年一一月二五日に被告人が藤原弁護人に宅下げしたズボンには、その臀部や裾等の表地側に被告人の血液型と一致する人血が僅かに付着しており、その付近には広く同血液型の精液が付着している外、昭和六三年三月二四日の第四五回公判期日当時、被告人の左前腕部尺骨側に腕関節から上部約一〇センチメートルにわたって色素沈着があり、前腕関節の外顆部近くに一・二センチメートル×〇・五センチメートル位の楕円形のもの、それから、〇・七センチメートル離れた部位に〇・七ないし〇・八センチメートル径の円形のもの、これに近接して〇・五センチメートル×〇・三センチメートル位の楕円形のものや〇・三センチメートル径の点状のもの、右点状色素沈着から肘の方へ四・二センチメートルの部位に〇・八センチメートル×〇・七センチメートル位のもの、これを含む周辺部が一・四センチメートル×一・二センチメートル位の楕円形のものがそれぞれ存在し、これらの傷跡は、以前に楕円形や類円形を呈する形で真皮層に達するほどの傷が生じた時期があったことを示し、その原因は明らかでないものの、刃物による切創や鈍器による挫傷ではなく、火傷や薬品によって生じた可能性があり、また被告人が逮捕された直後の昭和五九年九月六日と同七日の両日にわたって被告人に対してなされた身体検査の調書には、右各傷の記載がなく、これらはその後に生じた可能性が強いことがそれぞれ認められ、以上の事実は、弁護人の前記主張や被告人の供述を部分的に裏付けるようにも見られる。
2 しかしながら、他方において、被告人の取調べを担当した大阪府警の後藤正則及び増田義則両警察官並びに東巌検察官の各証言内容は、前記被告人の供述と大きく異なる上、(1)被告人は、一〇月一日の取調べ状況や同月一二日に窓ガラスで負傷した状況については接見に来た弁護人に一応の事情を説明しているのに対し、それ以上に暴行の程度が高く、直ちに弁護人に訴えて然るべきものと思科される同月二日からのたばこの火による拷問や同月一一日からの熱したトタン板様の物による拷問については、前記弁護人両名の各証言によると、被告人において当時弁護人に全く訴えていないし、弁護人も接見時そのような火傷を現認してはいないものと認められ、この点は明らかに不自然といわなければならず、しかも被告人が弁護人に右火傷の件の話をしたのは、同各証言によると、本件の検察官立証が終了する前ころと認められ(被告人は本件起訴後第一回公判期日の前に話したと供述するが、措信することができない。)、そのような時期まで黙っていたことについても被告人は首肯するに足る説明をしておらず、この点も不自然であること、(2)大阪拘置所の当時の被告人に関するカルテには、火傷についての記載がなく、拘置所において火傷の治療をしたことはないと認められ、この点被告人は、「拘置所の職員とそのような人間関係になく、また東検事に頭を下げてまで診察してもらう気にはなれなかった。」などと供述するが、前記のように右手の指の擦過傷や両手切創については治療を受けているのにそれより重い火傷についてのみ治療を受けなかったというのは不自然であるし、一〇月一二日の受診の際に火傷が存在しておれば、被告人の申告の有無にかかわらず、その火傷を負ったとする部位から見て当然医師がこれに気付いてその治療をし、カルテにもその旨記載されるものと考えられること、(3)取調官に強制的に自慰行為をされたという点についても、取調べ当時弁護人に訴えたことはなく、この件と被告人の血痕や精液が付着したズボンが存在することを弁護人に話したのも本件の検察官立証が終了するころであり、前同様、不自然というべきであること等の疑問点があり、それらは被告人の前記供述と著しく相反する事情というべきである。その他、右ズボンに被告人の血液や精液が付着した時期が明らかでなく、被告人はこのズボンを昭和六二年一一月まで着用していたと見られ、自らこれを付着させることも十分可能であったこと、被告人の左前腕部に認められる前記の色素沈着についても、その原因が明らかでない上、原因となった負傷の時期も不明であり、これをもって直ちに被告人の供述の根拠とするのは相当ではないこと等の諸点を総合すると、被告人の前記供述のうち、火傷をさせられる拷問を受けたとの部分及び強制的に自慰行為をされたとの部分は到底措信することができず、虚偽の供述といわなければならない。
また、一〇月一日と一二日にそれぞれ被告人が前記カルテ記載のとおり負傷した事実は明らかであるが、その経緯や負傷の原因となった行為の具体的態様及び被告人が自白するに至った事情等については、被告人の供述と取調官の証言が対立しているところ、証人後藤正則及び同増田義則は、「一〇月一日、黙秘する被告人に対し増田警察官が近寄って『廣田、聞こえているのか』と言ったところ、被告人が同警察官のネクタイを引っ張ったので、後藤、大杉両警察官が被告人の背後に廻ってネクタイから被告人の手を外したが、その際被告人が指に軽い傷を負い、増田、後藤両警察官も軽く負傷した。両警察官は同日診察を受け、報告書を作成した。一二日は、供述調書作成後、被告人に署名を求めたところ、被告人は京都の山中越えに連れて行ってくれないのであれば署名できないと言いだし、廊下に出て自ら窓ガラスを割って指に切創を負い、かなり出血した。一一日の自白は、丁島なる人物が主犯であるというそれまでの被告人の供述の矛盾点を追及した結果なされたものである。その他、被告人の供述するような暴行を加えたことはない。」旨それぞれ証言しているところ、その各証言内容については、格別不自然な点はなく、また、証人東巌に対する当裁判所の尋問調書の内容や当時の被告人の供述の内容ないし変遷経過とも符合すること、関係証拠によると一〇月一四日被告人を京都の山中越えに連れて行ったことが認められるなど、当時被告人が同所へ行くことを望んでいたことが明らかであり、一〇月一二日付供述調書の署名を拒んだ理由として述べる部分に裏付けがあること等の諸点に徴すると、その信用性はこれを肯認すべきものということができる。これに対し、被告人の前記供述については、一〇月一日当時取調官において人民新聞社の関係を被告人が供述するようにことさら追及したことはなかったと窺われる上、火傷や自慰行為に関し虚偽の供述をして、ことさら取調べ状況を自己の有利なように仕向けていることを併せ考慮すると、一〇月一日及び一二日の取調べ状況に関する被告人の供述は措信することができず、その他、被告人の供述の任意性に疑いを抱かせる事情は何ら認められないというべきである。
三 起訴後の取調べについて
本件では、一〇月一九日の起訴後、被告人の検察官に対する供述調書二通と司法警察員に対する供述調書一通が作成されているところ、起訴後においては被告人の当事者たる地位に鑑み、捜査官が当該公訴事実について被告人を取り調べることはできるかぎり避けるべきであるが、任意捜査自体は一般に刑事訴訟法一九七条によって許容されており、被告人の取調べもその例外ではないと解されるのであり(最高裁判所昭和三六年一一月二一日第三小法廷決定参照)、被告人の公判廷における供述及び被告人作成の上申書(一〇月二三日付、同月二五日付)、証人東巌に対する当裁判所の尋問調書、証人加藤肇の証言(第四三回公判)によると、本件起訴後の取調べについては、その真意はともかく、被告人が自ら供述する旨申し出てこれを求めたことが認められ、捜査官が被告人に対し取調べに応ずることを強制したような事情は何ら窺えず、したがって、任意捜査として適法な取調べであったというべきである。
第三被告人の自白以外の証拠により客観的に認定することができる重要な間接事実とこれに関する被告人の弁解の検討
本件では、京都事件で用いられた刃物や強奪に係るけん銃、犯行時の着衣などが発見されていない上、判示各犯行と被告人を結びつける他の物証も一切発見されておらず、そのような直接証拠としては、両事件についての被告人の自供調書の一部がある外、大阪事件については、同事件の目撃者丙島一子の供述があるのみであり、これらの証拠の信用性に対する的確な判断がもとより重要であるが、本件においては、右証拠以外に犯人は被告人の同一性を窺わせる客観的な間接事実が認められるので、まず、これらの間接事実とこれに対する被告人の弁解を検討することとする。
一 被告人が京都事件発生直後にその現場から近い船岡山(船岡山公園とこれに隣接し一体となっている建勲神社の敷地から成る。)南側ないし東南側等において乙山巡査の血液型(A・MN型)と異ならない血液型の血を両肘の後ろ辺りに付着させるとともに顔面にも飛沫血痕様の血を付け、更にズボンの後ろに土による汚れを付けたまま、上着を脱いで上半身下着姿で現場から遠ざかる方向に歩行し、あるいはタクシーに乗車するなどしていたこと
1 京都事件発生直後の九月四日午後零時五七分ころから同日午後一時三〇分ころまでの間に、京都事件の現場に近接する船岡山南側階段から京都市上京区大宮通り寺之内付近を経て同区千本中立売上ル東入ルの映画館「西陣大映」に至るまでの所々の地点において不審人物を目撃したとする計一一名の証人が存在するので、まずそれぞれの被目撃者と被告人との同一性を検討することとする。この点に関しては、各証人が写真面割や実物による面通しの際に、目撃に係る人物と被告人が同一である、あるいは、よく似ているとして被告人を識別した供述(以下、同様の供述を「識別供述」という)の信用性が重要であることはいうまでもないが、本件では、京都、大阪両事件発生の翌日である九月五日夕方に被告人が犯人として逮捕され、以後、頻繁に被告人の顔写真や護送される姿等が新聞やテレビニュースなどで大々的に報道されたため、右各目撃者が、被告人が犯人として逮捕されたという事実自体により、あるいは新聞やテレビニュース等における被告人の容姿によって暗示を受け、それとそれ以前から自己の持っていた被目撃者のイメージとを混同し、あるいは右イメージを変容させているおそれを否定できないのであって、各識別供述の評価にあたっては、この点格別の慎重さが要求されるところ、同証言中には後述の「西陣大映」におけるもののように、識別供述が被告人の遺留指紋によって裏付けられているものがある上、各目撃証人の証言に係る人物については、後に見るように身長、体格、容貌等の一般的な特徴の外、特異ともいうべき特徴(身体に血痕を付着させるなど)をそれぞれ見えていることから、これらの観点を中心に各被目撃者が同一の人物と認められるかどうか、及び同人物と被告人との同一性を判断することとし、次いで各識別供述自体の検討を加えることとする。
2 各証言に係る被目撃者の同一人性について
(1) 被目撃者の特徴等に関する各証言の内容について
各被目撃者が同一の人物であるかどうかの検討については、①各被目撃者の特徴が一致しているかどうかという点と、②各目撃時刻、同場所及び同人物が徒歩あるいはタクシーで向かった方向に鑑みて同一人の行動と評価することができるかどうかという点が重要であるところ、これらの点に関する各目撃証言の要旨は、大要、次のとおりである。
① 証人丁林八雄(第七回公判)は、午後零時五七分ころ、船岡山東南部の南側の階段下の南北に通ずる道路において、「四〇歳前後、身長一六〇センチメートル前後、小太り、坊主頭を少し伸ばしたような短い頭髪、色黒の丸顔で、銀縁のメガネをかけ、白色の丸首半袖シャツの下着姿で」、「両腕の肘から手首辺りまでの間に赤いものを内側にも外側にもまばらに付着させ」、「左手にベージュより白めで明るい感じの手提げ紙袋を持った」男が北から南へ鞍馬口通りまで歩いて行ったのを目撃した旨供述し、
② 証人丁森九子(第二六回公判)は、午後一時ころ、京都市北区紫野南舟岡町の同人方北側(鞍馬口通り南側)付近路上において、「身長一六〇から一六五センチメートル、がっしりした体格、短い頭髪、浅黒い顔で薄茶色のサングラスのようなメガネをかけ、白っぽい半袖シャツを着て」、「両肘外側に手首の方に向かって(左腕の方により多くの)血を付着させ」、「黒っぽいズボンの後ろのふとももから膝辺りにかけて白っぽい砂ぼこりのようなものを付着させ」、「両腕を腕組みするように前で組み、その腕を隠すように、ベージュ系統の色で表面に光沢のある紙袋様のものをかぶせた」男が鞍馬口通りの方向から南へ向かい、同証人と擦れ違ってから東へ曲がって歩いて行くのを目撃した旨供述し、
③ 証人丁坂十雄(第二六回公判)は、午後一時一〇分前後ころ、鞍馬口通り南の同区薬師前町付近路上において、「身長一六〇センチメートル位、がっちりした体格、五分刈りの頭髪、色黒で丸顔、メガネはかけておらず、ランニングシャツ姿、紺のズボンで茶系統の色の靴を履き」、「両腕の裏側の肘から下辺りと、肘のやや上辺りに血を付着させ」、「左側と思うが、ズボンの後ろに土(砂)を付け」、「左腕に二つ折りの買い物袋様のものを巻いた」男が智慧光院通り西側の路地から同通りに出てこれを横断し、同通り東側の路地に入って東方の大宮通りの方向へ歩いて行くのを目撃した旨供述し、
④ 証人戊川一平(第二六回公判)は、午後一時一五分ころ、同区大宮通り寺之内上ル三丁目西入ル社横町二九八番地の同人方前路上において、「四〇から四五歳、身長一六五から一七〇センチメートル、中太り、五分刈りの頭髪、浅黒い丸顔、メガネはかけず、白のランニングシャツ姿、紺のズボンで焦げ茶色の靴を履き」、「右肘の下外側に血を付け」、「ズボンの右膝から裾にかけての箇所を砂のようなもので白く汚し」、「両腕を前で組み、それを隠すようにベージュ色の網目になった紙袋で覆った」男が上御霊前通りを東に大宮通りに向かって歩き、同通りとの交差点角にある大宮頭派出所の横で急に旋回して元来た道を西に戻り、南北に通ずる社通りを南に向かって歩いて行くのを目撃した旨供述し、
⑤ 証人戊丘二平(第二九回公判)は、午後一時五分から一〇分ころ、右同所付近で、「がっちりした体格、五分刈りが少し伸びた頭髪、メガネはかけず、ランニングの肌着姿で濃紺のズボンを履き」、「右肘にべったりと血を付け、眉毛の上辺りにも点々と細かい血のようなものを付け」、「ズボンの後ろ臀部辺りに砂ぼこり様の汚れを付け」、「右腕を曲げてそこにシャツと紙袋様のものを巻きつけた」男が右④の証言と同様に歩いて行くのを目撃し、
⑥ 証人戊山三平(第二九回公判)は、午後一時すぎころ、同区大宮通り寺之内上ル西入ル東千本町三三九の同人方前付近路上において、「三五、六歳、身長は自分(一六二センチメートル)と同じかやや低め、ずんぐりした体格、五分刈りの頭髪で服装については覚えていないが」、「両腕の手首から肘のやや上にかけて地図のような赤いむらむらがある」男が上御霊前通りの南側二筋目の東西の通りを西から東へ大宮通りに向かって歩いて行くのを目撃した旨供述し、
⑦ 証人戊海四平(第二五回公判)は、午後一時五分から一五分ころ、同区大宮通り寺之内上ルの喫茶店「カトレア」で昼食中、同店前路上において、「四〇歳より上、身長一六〇から一六五センチメートル、がっちりした体格、短い頭髪、色黒で上着(白いシャツ)を脱いで腕にかけ、白のランニングシャツ姿で」、「左腕の肘の上に線が入ったような血の跡を付けた」男が大宮通りの北側から現れて、南から来たタクシーに乗り込み北へ行くのを目撃した旨供述し、
⑧ 証人戊谷五平(第七、八回公判)は、タクシー運転手であるが、午後一時一五分ころ、大宮通りを北進中に右「カトレア」前路上で男の客一人を乗車させ、その客は同区千本中立売交差点東側で降車して東に歩いて行ったが、「四五歳位、背はあまり高くなく、がっしりした体格、五分刈りかスポーツ刈りのような頭髪、色黒、メガネはかけておらず、白の半袖開襟シャツを着ていた」、「乗る時から降りる時まで両腕を前で組み、これを隠すようにベージュ様の色の麻袋のようなものを巻いていた」、「その客が降りてから後部座席を見ると、同座席カバー左側の端に赤黒いものが付いており、その前の客が降りた際にはなかったので、今の客が汚したと思った」旨供述し、
⑨ 証人戊田六平(第二四回公判)は、午後一時三〇分ころ、前記千本中立売交差点東側路上において、「三五から四〇歳、身長は自分(一六四センチメートル)よりやや低め、小太り、五分刈り位の頭髪、浅黒い顔色、ランニングシャツ姿で紺色ズボンをはき」、「左腕の肘から手首にかけて拭ったように血をつけ」、「両腕を前で組み、そこに白っぽいベージュ色様の上着かシャツのようなものをかけた」男が中立売通りを南から北に横断し、「千中ミュージック」や「西陣大映」のある方向に歩いて行くのを目撃した旨供述し、
⑩ 証人戊島七平(第二四回公判)は、同時刻ころ、同区中立売土屋町上ル角付近路上において、「三五、六から四〇歳、身長一六五、六センチメートル、スポーツ刈りがやや伸びた頭髪、半袖シャツの下着姿で黒っぽいズボンをはき」、「左腕の肘に血を付け」、「右側にベージュ色で二つに折った袋様のものを抱えた」男が土屋町通りを北へ向かって歩き、「西陣大映」の方に左折したのを目撃し、
⑪ 証人戊林八平(第八、九回公判)は、同区千本中立売上ル東入ル所在の映画館「西陣大映」に勤務するものであるが、同時刻ころ、「三五から四〇歳、身長一六〇から一六五センチメートル、小太りでがっちりした体格、五分刈りの頭髪、浅黒い顔色、メガネはかけておらず、白のランニングシャツ姿で紺系統のズボンをはき」、「左肘の後ろ辺りに薄く血を付け、頬あるいは額の辺りにも割合新鮮な色で飛び散ったような細かい血のようなものを付け」、「ズボンの後ろ側右大腿部辺りに白っぽい土による汚れのようなものを付け」、「左脇にベージュ色の袋のようなものを折って抱えた」男が入場し、約五分後に出て行ったのを目撃した旨供述している。
(2) 右各証言の信用性について
右に掲げた被目撃者の特徴等に関する各証言の信用性については、いずれの証人も昼間、至近距離ないしはせいぜい数メートルの距離から目撃したもので、その各観察条件は良好であったと見られること、右のうち、⑧を除き、いずれも被目撃者は両肘あるいはいずれかの肘に血を付着させるという相当特異な特徴を有していたとされ、この点は思い違いをするような事柄ではないと思料されること、その他ズボンの汚れ(②ないし⑤、⑪)、両腕を前で組み、紙袋様のものでこれを覆った状況(②、④、⑧、⑨)及び顔面に血痕様のものを付着させた状況(⑤、⑪)なども右同様印象に残り易い特徴であること、各証人が、それぞれ前掲のような状況、特に血液付着の状況を目撃することにより、当該人物に対し程度の差はあれ、何らかの不審感を抱き、その後の観察や記憶が意識的になされたと考えられ、特に②、③、⑤、⑦の各証人は、各目撃後間もなくその状況を自らあるいは知人を介して警察に通報し、⑧、⑨の各証人は、タクシー運転手であるが、いずれも無線基地からの指示に基づき、目撃後直ちに基地に通報した上、警察署に出頭したものであること、①、④、⑥、⑩、⑪の各証人も目撃後間もなく、あるいは遅くとも二、三日以内に警察の事情聴取を受け、いずれも記憶が新鮮なうちに目撃状況の説明をしたと認められること、その他各証言の内容が具体性に富んでいること(先に摘記したのは、各証言の大筋に過ぎない。)などの諸点を総合すると、その信用性はいずれも高く、十分措信しうるものというべきである。
(3) そうすると、右各証言に係る被目撃者については、そのすべてに共通の特徴として、両肘あるいはどちらかの肘に血を付着させていたことが認められ(なお、⑧については、司法警察員作成の九月四日付実況見分調書(戊谷五平立会のもの)及び証人戊森九子の証言(第二七回公判)によると、戊谷五平運転のタクシー後部座席カバーに残されていた血痕は、滴下痕ではなく、血液が付着した物が同所に接触することによって付けられたものであること、同血痕は、同座席カバー左端のミシンの縫い目を中心に付着しており、座席面からの高さは約二〇センチメートルで、大きさは一二センチメートル×三センチメートル(最大幅)程度であることが認められ、右付着状況及び戊谷証人が直前の客が降りた際には同血痕がなかったと明確に証言し、この点十分信用できることからすると、同血痕は、前記「カトレア」前路上で乗車してそこに座った人物の体に付いていた血が同所に付着したものということができ、更にその血がついていた部位としては同人の左肘後ろ辺りと考えるのが自然である。)、この点は特異な特徴の一致として重視しなければならないところ、その他同人物の年齢、身長、体格、頭髪の状態、容貌(色黒で丸顔)等の特徴がよく合致していること、すべての証人が一致して証言する事項ではないものの、ズボンの後ろ側に土(砂)によると思料される汚れを付着させ(②ないし⑤、⑪)、ベージュ色様の紙袋を所持し(①、②、④、⑧、⑩、⑪)、両腕を前で組み、これを紙袋様のもので隠すようにし(②、④、⑧、⑨)、顔面に細かい血痕様のものを付着させていた(⑤、⑪)という点について、それぞれいくつかの証言が一致していること、着衣についても、上は白色のランニングシャツ又は半袖シャツ、下は濃紺ないし黒っぽいズボンということでほぼ一致していること、そして、各目撃時刻が接着してほぼ連続しており、各目撃場所、被目撃者が歩いていた方向、あるいはタクシーに乗って赴いた方向についてもそれぞれ連続していると考えられ、同一人の行動と評価できることを総合すると、各被目撃者は、同一人物であり、船岡山東南部の南側から最終的に前記「西陣大映」まで各目撃場所を通過して赴いたことが認められるというべきである。
なお、右各証言の内容を検討すると、各被目撃者の腕における血の付着箇所や付着状況につき若干の差異があるようにも思われ、また弁護人が主張するように、ズボンの汚れを目撃したかどうか、顔面に血が付いているのを目撃したかどうか、着衣がランニングシャツだったのかどうか等の点についても差異が認められるので付言するに、まず、右のうち腕や顔面の血の付着状況及びズボンの汚れに関する証言については、目撃の方向や当該証人と被目撃者との位置関係等の条件が同一でなく、各証人が注意ないし関心を持った被目撃者の身体の箇所も異なることを考慮すると、取り立てて矛盾とすべき程のものではないというべきである。次に、着衣については、前掲の各証言のうち、①が「白色の丸首半袖シャツ(下着)」、②が「白っぽい半袖シャツ(下着ではない)」、③ないし⑤、⑦、⑨、⑪の六証人が「下着のランニングシャツ」、⑧が「白色の半袖開襟シャツ」、⑩が「半袖シャツ(下着)」とそれぞれ証言している(⑥の証人は、服装については覚えていないと証言している。)ところ、②と⑧を除き、いずれも半袖シャツかランニングシャツかの違いはあるものの、下着姿であったということで一致していること、②の証人は男の服装については、他の特徴に比し、必ずしも明確な記憶に基づいて証言したものではないと思料されること、⑧については、男を乗車及び降車させた時刻と場所、着衣以外の諸特徴の一致から考えて、⑦と⑨の各証言に係る人物が⑧のタクシーに乗ったことは疑いないところ、その⑦、⑨の各証言は明確に男はランニングシャツ姿であったとしており、⑦の証人はその旨の図面まで作成しており、また⑨の証人は、タクシー無線基地の指示内容から京都事件の概要を知り、腕に血を付けた男を見て犯人と直観し、自車の前を横断して行くその男を注視したもので、いずれもその信用性は高いといわなければならず、男がタクシーに乗ってから開襟シャツを着て、降りてすぐこれを脱いだということも考えられないので、⑧の証人は男の服装につき記憶違いをしているおそれが強いことの諸点を考慮すると、これらの着衣に関する証言の差異は、未だ前記認定に影響を及ぼすものではないということができる。
その他、メガネ着用の有無、両腕を組んでいたかどうかの点につき証言に差異があるが、これらの点は、被目撃者がメガネを外したり、姿勢を変えたりすることも十分ありうるのであるから、格別矛盾とはいえないというべきである。
3 被目撃者と被告人との同一性について
以上にように、前掲各証言に係る被目撃者が同一人物であることが肯定できるのであるが、これが被告人であるかどうかについては、まず、被目撃者の身長、体格、頭髪の状態、容貌等の特徴がおおむね被告人のそれと一致していると認められるところ、更に、前掲関係証拠によると、前記「西陣大映」内に残された清涼飲料水「リアルゴールド」の空き瓶に被告人の指紋が付着していたことが認められ、被告人が同映画館に入ったことは疑いないので、前記⑪の人物がその「リアルゴールド」を飲んだとする前記戊林八平の証言の信用性を検討すべきことになる。
そこで同証言を子細に見ると、同証人は、男が同映画館に現れ、場内に入る際に男の肘の辺りに血が付いていることやズボンに土による汚れが付いていること等に気付き、しばらくして男が場内からロビーに出てきて、「リアルゴールド」の自動販売機の前に行き硬貨を入れたので、男から一メートル位の所まで近寄り、証人の方から「引っ張り出して下さい。」と声をかけたが、その際左肘の後ろに血が付いているのを再確認し、その後男が同映画館を出て行く際には、正面から男の顔を見てそこに血痕様のものが付いているのに気付いたとしており、そこに不自然、不合理な点はなく、特に自動販売機の前で「リアルゴールド」を買う男の左肘に血が付いているのを見たとする点は思い違いをするような事項ではなく、具体的な記憶に基づく証言ということができ、また、同証言中、同証人において、男が館外に出て間もなく同館に駆けつけた警察官(大釜正敏)に対し、血を付着させる等した男が入館して短時間で出ていったことや男が飲んだ「リアルゴールド」について説明し、直ちに同警察官が館内に残された「リアルゴールド」の空き瓶を探すのを助け、水滴の付いた同空き瓶を特定するに至った状況に関する部分は、それ自体自然であり、しかも証人戊坂十平の証言(第二四回公判)内容とよく合致しているのであって、以上からすると、⑪の男が「リアルゴールド」を購入してその空き瓶を同館内に残したもので、これから被告人の指紋が検出されたことが優に認められるといわなければならない。したがって、⑪の人物は被告人であることが明らかであり、結局、前掲各証言に係る不審人物と被告人との同一性が肯定されるというべきである。
4 識別供述の信用性について
加えて、前記各証人は、被告人を自分の目撃した人物として識別する供述をしているので、その信用性を検討するに、前述のとおり、本件では、テレビニュースや新聞報道による影響を考慮しなければならず、それらをまだ見ていない段階あるいはこれを見た際における、いわば原始識別供述の内容が重要と思料される。
まず、⑤ないし⑦、⑨、⑩の各証言については、識別供述の内容自体断定的ではなく、あいまいさが看取できるので、その各信用性はさして高くはなく、その識別供述自体から各被目撃者が被告人であることを導くことはできないというべきである。
そこで他の証言について見るに、①の証人は、テレビや新聞で被告人の顔や姿を見た際、自分が目撃した男とよく似ていると思った旨証言し、②の証人は、テレビで新幹線の車両内にいる被告人の姿を見た際、すぐ自分が目撃した男と同一人物であることがわかり、一緒に見ていた姉にその旨話したと証言し、③の証人は、目撃した当日に警察官から何枚かの写真を見せられて自分が目撃した男の写真があることがすぐわかり被告人の写真を選び出した、また、最初にテレビで被告人を見た際、自分が目撃した男とまったくそっくりでよく似ていると思った旨証言し、④の証人は、テレビで被告人が新幹線で護送される姿を見て自分が目撃した男と同一人物であることがすぐわかり、一緒に見ていた母親に「あっ、これ前通りよったわ」と言った旨証言し、⑧の証人は、テレビで被告人が護送される姿を見て、自分の目撃した男とそっくりでまったく同一人物だと思った旨証言し、⑪の証人(なお、同証人の識別供述については、前述のとおり、被告人の遺留指紋により裏付けられているものであるが、同供述自体の内容をここで見ておくこととする。)は、目撃した当日に警察官からすべて違う人物の一〇数枚の写真を見せられ、その中から被告人の写真一枚を選び出した旨証言しているところ、以上の各証人の証言内容及び右時点以降の取調べ等における識別供述の内容等に照らすと、右各識別供述の信用性は高く、十分これを信用することができるといわなければならない。
5 戊谷五平運転のタクシーの後部座席に残された血痕の血液型について
以上の次第で、前掲各証言に係る不審人物は被告人であることが認められ、そうすると、被告人は、九月四日の午後一時一五分ころ京都市上京区大宮通寺之内上ルの喫茶店「カトレア」前路上で戊谷五平運転のタクシーに乗り、その後部座席カバーに自己の肘辺りに付いていた血を付着させたものと推認できるのであるが、右付着血痕については、科学警察研究所警察庁技官坂井活子外一名作成の鑑定書によると、A型でMN型の人血と認められ、これは被害者乙山巡査の血液型と異ならないものである。
6 小括
前掲の各証言及びその余の関係証拠を総合すると、被告人は京都事件発生直後に現場直近において両肘後ろ辺りに被害者の血液型と異ならないA・MN型の人血を付け、顔面にも飛沫血痕様の血を付け、ズボンの後ろを土(砂)で汚し、腕を前で組むなどしてこれを紙袋様の物等で覆い隠すような格好をし、上着を脱いで上半身下着姿(なお、司法警察員作成の「再生ビデオの写真撮影について」と題する書面によると、被告人は九月四日午前七時四〇分に判示「京都スポーツサウナ」を出る際には、下着としてランニングシャツを着ていたことが明らかであり、これに前掲の各証言内容を考え併せると、ここでもランニングシャツを着ていたと認めるのが相当である。)のまま現場から遠ざかる方向に歩き、途中からタクシーに乗って「西陣大映」付近まで赴き、同映画館に入ってすぐに出て行った事実が認められる。
7 被告人の法廷での弁解について
これに対し、被告人は、前記のアリバイを主張するのみで、右不利益事実につき何ら説明していないが、被告人主張のアリバイは、関係証拠によると、公判段階で初めて主張するに至ったものと認めざるを得ず、捜査段階における否認供述と大きく相違する内容であって、その間の事情につき合理的な理由は全く見出せないものである。そして右アリバイは丁川一雄という人物の存在を前提とするものであるが、被告人は、何度も電話で連絡をとったとしながら同人方の電話番号等を明らかにできない上、現在の同人の所在もわからず、連絡の方法もないとしていること、司法警察員作成の「丁川一雄の所在捜査結果について」と題する書面によると、被告人において右丁川が居住していたとする京都市南区内に昭和五八年一月以降そのような人物が住民登録をした事実はないと認められることなど、同人物が存在すること自体に裏付けがなく、また、そのアリバイ主張の根幹をなす事情は、被告人が前件で逮捕される前に同人と共に行っていたいわゆる「呑み行為」の客に対する未回収金を取り立てるため、同人と二人でその客の家を探していたというものであるが、そのような六年以上も前の(被告人が前件で逮捕されたのは昭和五三年七月である。)「呑み行為」の未回収金を取り立てるということ自体不自然であり、更に被告人の公判供述によると、被告人は八月三〇日に丁川に対して右回収を依頼し、同人は九月四日までにほぼ全額の一五〇〇万円近くを回収し終わっていたとしているが、右のような性格の金員をそのような短期間で、しかも全額近く回収しえたというのも極めて不自然である上、右のような「呑み行為」の未回収金が存在していたことを裏付けるメモ等の証拠も何ら提出されていないのである。他にも被告人の右アリバイ供述には随所に不自然、不合理な点が見られるのであって、以上を総合すると、右アリバイ供述は、到底措信できないばかりか、虚偽の供述といわざるを得ないものである。
8 まとめ
そして、被告人の右の不合理な弁解の状況の外、前記認定のとおり、京都事件の現場の状況及び乙山巡査の死体に存在する損傷の状況から見て、京都事件の犯人は同巡査の血を相当自己の身体・着衣等に付着させていたものと推認でき、また、加害行為の際、同巡査の抵抗により路上に転倒した事態も考えられることからすると、京都事件発生直後における被告人の前記状態及び行動は、被告人が同巡査に対する加害行為中、その血を両腕等に付け、ズボンの後ろを土で汚し、その後血の付いた上着を脱ぎ、血の付いた腕を隠すようにして現場から逃走していたことを強く推認させるものというべきである。
二 被告人が九月三日に京都事件の成傷凶器となりうるステンレス包丁を購入し、同月五日の逮捕時にはこれを所持していなかったこと
1 被告人が丙丘刃物金物店でステンレス包丁を購入した事実の有無について
証人丙丘春子の証言(第四回公判)及び司法警察員ら作成の「売上帳の還付について」と題する書面(不同意部分を除く)によると、同女は、京都市上京区千本通上長者町下ルにおいて丙丘刃物金物店を経営するものであるが、九月三日午前一〇時三〇分ころ、四〇歳位で身長一六〇センチメートル前後の男の客にステンレス製包丁一本を二九〇〇円で売り、同一一時すぎころ、再び来店した同じ客に折り畳み式のこぎり一本を一〇五〇円で売ったことが明らかである。
そこで、その客と被告人が同一であるかどうかが問題となるところ、右丙丘、証人松村輝光(第三一回公判)及び同丁丘二雄(第三二回公判)の各証言を総合すると、
(1) 京都事件発生後、京都府警の警察官は、犯行に使われた刃物の入手先に関する聞き込み捜査の一環として何度か丙丘刃物金物店を訪れ、右丙丘に被告人の写真を見せてこの男に刃物を売ったことはないかと尋ねたものの、同女は、九月三日に包丁とのこぎりを男の客に売ったことはあるがその客は被告人とは違う旨答えていたこと、
(2) したがって、京都府警としては、同店をはじめ、その他の刃物店等に対する聞き込み捜査の結果においても、被告人に刃物を売ったとの裏付けを取ることはできていなかったこと、
(3) 一〇月六日、大阪府警察本部刑事部機動捜査隊に所属する松村輝光警察官は、上司の指示により本件捜査を応援することになり、被告人作成の刃物店の所在図一枚とのこぎりの図一枚の各写しを渡されて他の警察官一名と京都に赴いて右各図面に関する裏付け捜査に従事したところ、右図面に書かれた刃物店の場所に前記丙丘刃物金物店が所在することが判明し、また、同店内で右松村警察官が、もう一つの図面に記載された折り畳み式のこぎりと同種類のものを店の陳列ケースから出して前記丙丘春子に示すと、同女は、その種類ののこぎりを売ったことは客と自分しか知らない筈であり、それまで京都府警の警察官には単に「のこぎり」を売ったとしか伝えておらず、「折りのこ」とまで限定してはいなかったので大いに驚き(同女は食事ものどを通らぬほどのショックを受けたと述べている。)、京都府警の警察官には見せていなかった九月三日の売上状況を記載した同店の売上帳を右松村警察官に見せ、当日の状況につき説明するに至ったことの各事実が認められる。そうすると、当時捜査側に判明していなかった事情(特に折り畳み式のこぎり販売の事実)が、被告人の作成した図面によって初めて明らかになったものであるから、被告人において、九月三日における同店での右包丁及び折り畳み式のこぎり販売の事実を知っていたものであり、このことは、前記丙丘が証言する「四〇歳位で身長一六〇センチメートル前後の男」という特徴が被告人と一致することを併せ考えると、被告人が他から聞くなどして右販売の事実を知るに至ったことを示す何らかの事情が認められないかぎり、被告人自身がこれを購入したことを窺わせるものといわなければならない。
そこで、被告人がどのような理由で右事実を知ったのかという点に関する被告人の弁解が問題になるところ、被告人は、公判廷において、「九月三日午後三時二〇分ころ船岡山公園の頂上で丁川と会ったが、その際同人の妻も来ており、同女が丁川に『あんた包丁とのこぎりを買ってきたの。』と聞くと、同人が『千中を下りたところの店で買った。箱は置いてきた。』と言って裸の包丁とのこぎりを出したのを見た。」旨供述してこの点を説明している(第三八回公判)。しかし、被告人が当時丁川なる人物と行動を共にしていたということ自体信用できないことは、前述のとおりであり、また包丁やのこぎりに関して右のような弁解を捜査段階でした形跡はなく、公判段階で初めて供述するに至ったものと認めざるを得ず、その理由につき首肯するに足る説明がないし、右供述内容自体場当たり的との感を拭えず、丁川の妻が船岡山公園にわざわざ出向いて被告人と会った理由が明らかでないなど、不自然、不合理な点が多々見られるのであって、被告人の右供述は信用することができず、虚偽の供述と断ぜざるを得ない。
以上によると、被告人が九月三日午前一〇時三〇分ころと同一一時すぎころ、前記丙丘刃物金物店で丙丘春子からステンレス包丁と折り畳み式のこぎり各一丁を購入した事実は、これを認定することができるというべきである。
2 丙丘証人の識別供述について
同証人は、九月三日の前記の客について、「年令は四〇歳前後で身長一六〇センチメートル前後の男であり、はっきりとは言えないが、法廷の被告人と似ていると思う。」旨証言するが、右識別供述自体あいまいさが看取される上、他方で、前述のとおり京都府警の警察官に被告人の写真を何度も見せられたのに、九月三日の客とは違うと繰り返していた上、テレビや新聞で何度も被告人の姿や顔を見ても何も感じなかったと証言しているのであって、同証人の右識別供述自体に全幅の信頼をおくことはできないというべきである。なお、同証人の京都府警の警察官に対する右供述内容やテレビや新聞報道からは何も感じなかったという点は、九月三日の客が被告人ではないことを示すものではないかとの疑問が生じうるが、その客は、同証人にとって別段印象に残るような特異な行動等をとったものではなく、通常のありふれた客であったと見られ、その容貌等が記憶に残らなくても不自然ということはできず、更に同証人は、その客は終始ニコニコしていたとの記憶があるのに対し、京都府警の警察官が見せた写真やテレビ等での被告人の顔つきは非常に厳しいものだったとも証言していることを併せ考えると、右の点は、被告人による前記包丁等購入の事実を認定するに際し、影響を及ぼすものではないというべきである。
3 右ステンレス包丁と京都事件の成傷凶器について
右丙丘証言、司法警察職員作成の「包丁箱の任意提出経過について」と題する書面(不同意部分を除く)、符四号及び符二七号によると、九月三日に右丙丘が被告人に売ったステンレス包丁は、符二七号の包丁と全く同一のものであることが認められ、更に京都府立医大法医学教室教授古村節男作成の昭和六二年二月二八日付鑑定書によると、右包丁は、乙山巡査の死体や当時の着衣に存する各損傷(けん銃によるものを除く。)につき、その成傷凶器となりうるものであると認められる。
4 以上のように、被告人は、九月三日午前に右のように京都事件の成傷凶器となりうる包丁を購入したものであるが、司法警察職員作成の捜索差押調書(逮捕時の被告人の所持品に対するもの)によると、九月五日に被告人が逮捕された際には、右包丁を所持していなかったことが明らかであり、それまでに被告人において同包丁を遺棄ないし隠匿するなどして処分したことが窺われ、このように同包丁を処分しなければならなかったことや同包丁購入に関する被告人の前記の不合理な弁解の状況をも併せ考えると、この点も被告人が京都事件の犯人であることを窺わせる間接事実の一部を成すものということができる。
三 被告人が、大阪事件発生の直前に、同犯行現場である判示丙海ビル二階の「ローンズ丙谷」の階上にある同ビル四階の金融業「ローンズ丙林」に現れて不審な行動を示した上、その際、大阪事件の犯人と同様の衣服等(赤の半袖ポロシャツ、薄い黒のレンズのサングラス、黒色の手袋)を身につけており、また、犯人を目撃した「ローンズ丙谷」の店員(丙島一子)が供述する犯人の年齢、体格、人相等が被告人と一致すること
1 証人子川東子の証言(第九、第一一回公判)、子丘南子の検察官に対する供述調書及び同人作成の任意提出書、大阪府警察本部刑事部鑑識課巡査部長竹井康人作成の九月二二日付鑑定書によると、被告人は、九月四日午後三時一〇分ころ以降に、京阪京橋駅北側の飲食店「ダイヤモンド」(主に若い女性向けの店である。)に入って、レモンのかき氷を飲み、コカコーラの紙コップで水を飲み、かき氷のカップに右手拇指の指紋を残したことが認められる。そして、被告人が同店に入った時刻の特定、特に大阪事件発生の前か後かという点が問題となるところ、この点につき同店の従業員である右子川は、「九月四日午後二時四五分ころ、同店の経営者子丘南子を訪ねる客があり、同女に連絡して同女が店に来た。その客は一五分位して帰ったが、その後右子丘の弟がバターを貰いに来るなどし、三時一〇分ころ高校生風の女子三人が入って来た。それから暇なので二、三〇分うたた寝をした後、男の客があった。男は、四〇歳位でこのような客が店に来ることはほとんどない。男は五分か一〇分後に店を出たが、その後三〇分位して外で消防車のサイレンが鳴ったりしていたので、外に出てみると、パトカーや救急車が停まっていた。」旨証言している。同証言によっても被告人が来店した時刻は必ずしも明らかでないものの、同証言にもあるように被告人のような年齢の男性客が同店に来るのは稀であったことが認められ、したがって、そのような客については同証人の印象に残り易いものと思料される上、そのころ被告人以外に被告人のような年齢の男性客が同店に来た形跡は認められず、したがって他の人物と混同することは考えられないこと、同証人は、被告人との応対の状況や被告人の年齢、身長、頭髪の状態、容貌等の特徴について具体的かつ的確に証言するなど、当時の比較的明確な記憶に基づいて証言していると思料され、被告人が同店を出て三〇分位経ってから外が騒がしくなって何らかの事件が発生したことに気付いたという時間の経過に関する証言もあいまいな記憶に基づくものとはいえないこと、また同証人は、「パトカーや救急車により店の外が騒然となってしばらくして同店に来た私服の警察官から『今そこで事件があったが、金縁のサングラスをかけ、袋を下げた赤いシャツの男が店の前を通らなかったか。』と聞かれ、店の前を通らなかったかと聞かれたので、その時は『わからない。』と答えたものの、すぐに先程の男の客のことを思い出し、たまたま通りかかった三人の警察官に事情を説明した。」旨証言しており、この点は思い違いをするような事情ではない上、このように大阪事件発生後間もなく現場周辺に駆けつけて聞き込みに従事した警察官に男性客の件を説明したというのは、同店の外が警察の車両等で騒然となってから被告人が店に現れ、しかも五分から一〇分の間店に居たというのと相容れない事情と考えられること、同証言は後述の子山西子の証言内容ともよく符合すること等の諸点に徴すると、被告人が同店に来た時間帯に関する右証言は、大筋において信用することができ、被告人が少なくとも大阪事件発生のしばらく前に同店を訪れたこと自体は優に認められるというべきである。
また同証人は、被告人の服装につき「上は赤の半袖シャツで、下は黒か紺のズボンだった。」と証言しているところ、前述したようにこの点も十分信用することができる。
なお、弁護人は、右「ダイヤモンド」に残されたカップから被告人の指紋が検出されたとしても、右子川証言に係る人物が右指紋を遺留したものと断定することはできない旨主張するが、同証言及び子丘南子の検察官に対する供述調書によると、右子川は、前記の警察官三名に男性客の件を説明した後、もしその男が事件の犯人であれば指紋をとるかも知れないと考えて、男が使った容器の所在を確認し、同女が捨てた場所にそのままあったのを見た上で帰宅したが、同日の午後六時ころ、前記子丘南子から電話でその容器の所在を聞かれたのでこれを教え、右子丘がその容器を警察に任意提出したことが認められるのであり、右経過に徴しても同証言に係る男性客が使った容器から被告人の指紋が検出されたことは疑いないものということができる。
2 右に見たように、大阪事件発生の少し前に被告人が犯行現場近くにいた事実が認められるところ、更に、証人子山西子は、右「ダイヤモンド」の二階に居住するものであるが、午後三時三〇分すぎから四時前ころ、エンジ(赤色)の半袖スポーツシャツを着た男が「ダイヤモンド」の店内にいるのを見たが、その後右の男が丙海ビル東側の丙森ビル(両ビルは実質的には同一の建物である)前で左右を見渡したり、「ローンズ丙谷」及び「ローンズ丙林」の看板等が出ている同ビルを見上げたりしているのを目撃し、その男は被告人とよく似ており、同一人物だと思う旨証言しているところ(第一一回公判)、前述したように、その時刻ころ「ダイヤモンド」に入店した客の中で、被告人のような年齢の男性客は被告人以外にはいなかったものと認められ、また服装(上着の色及びそれが半袖であること)が右子川証言と一致し、その余の特徴も被告人と一致すること、後述のとおり被告人がその後と考えられる時刻に右「ローンズ丙林」に現れたことが認められることからすると、同証人の識別供述は信用することができ、また、被告人の行動に関する証言についても、不自然、不合理な点はない上、具体性があり、同証言どおりに被告人が行動したものと認められる。
3 丙海ビル四階所在の「ローンズ丙林」の店長丙木二夫(第一二回公判)、同従業員丙坂三夫(第一三回公判)及び同丙泉四子(第一四回公判)の各証言並びに右丙坂の司法警察員に対する各供述調書(二通)、司法警察員作成の「強盗殺人被疑事件発生直前ローンズ丙林京橋店に立ち寄った不審者が所持していた紙袋に描かれた絵柄の図面の入手経過について」と題する書面によると、大阪事件発生の直前である午後四時前ころ、右丙木、丙坂及び丙泉の三名が仕事をしていた右「ローンズ丙林」の北側にある入口に、赤色のかぶりの半袖シャツで胸にボタンが三、四個あるものを着て、金縁の薄い黒のレンズのサングラスをかけ、黒色の手袋をし、更にベージュ色で光沢があり、編んだ感じの、上の方にローマ字で「KYOTO」、中央部に金閣寺の墨絵、下の方に崩した字で「金閣寺」と書かれた手提げ袋(符二五号に酷似するもの)を持った男が訪れたこと、その男は最初ドアを顔が入る程度に開けて内部を左右に覗いてすぐにこれを閉め、しばらく入口外の踊り場付近にいたが、再びドアを先程に比して大きく開け、店内の西側にいた右丙坂と話をしてから出て行き、階段を降りて行ったこと、その後間もなく右三名が大阪事件の発生を告げる「バーン」という銃声を聞いたことが認められる。そこで、右人物と被告人との同一性が問題となるところ、その人物については、右三名とも写真面割や実物による面通しに際して、被告人を指摘しているが、この各識別供述については、(1)被目撃者がサングラスをかけ、いまだ残暑が厳しい九月初旬の午後四時ころに黒の手袋を着用していた上、左手でドアを少し開けて中を左右に覗いてすぐにこれを閉め、立ち去ることなくしばらくそのドアの外付近に居続けるという相当不審な行動をとったことから、右三名とも男に対して不審者との意識を持ったと認められ(例えば、右丙木は男に応戦するため自分の席の灰皿を手にしようと思ったと証言している。)、その後の男の行動等を注視するとともに男の特徴や所持品についても強く印象に残ったことが窺えること、(2)各証人の男に対する目撃の条件を見るに、右各証言及び右丙坂の証言調書に添付された同店内の見取り図によると、同店は、北側にスリガラスの入った出入口ドアがあり、そのドアから南に一・八メートル離れて東西に幅六〇センチメートルのカウンターが設けられ、入口の西端から南西側約二・一メートルの所に右丙坂の席が、入口西端から南側ほぼ正面に約四・八メートル離れて右丙泉の席が、入口西端から東南側約三メートルの所に右丙木の席がそれぞれあり、男が最初同店に顔を出した際右丙坂と丙泉はいずれも自分の席に、丙木は丙泉の事務机の前やや東側に位置していたもので、三名とも男に気付いて短い時間ながらも各位置からその顔を見たこと、男が二回目に左手でノブを持ってドアを開けた際には丙坂と丙泉は従前どおりの位置に、丙木は自席の灰皿を取るためカウンターの自席近くまで移動しており、いずれも男に不審感を抱いていたので男がドアを開けようとするときからこれを注視していたこと、その際男は、ドアを一回目より大きく、半ば以上開け、左足を室内に一、二歩位踏み入れ、身体も半分位を中に入れていたもので、当初その顔を店内南側等に向けていたが、丙坂に話しかけられてからは、主に同人の方に顔を向け、丙坂は正面から男の顔を見ることができ、丙泉はその左横顔を、丙木はやや左後ろの方向からその顔を見たものであるが、いずれも顔の特徴や着衣を十分観察しうる位置、距離にあったこと、男が二回目にドアを開けて右丙坂と話した時間は、その会話内容から見て数十秒はあったことがそれぞれ認められ、以上のように各証人の男に対する観察条件は良好であったということができ、このことは、各証人が男の特徴や言動について詳しく具体的に証言していることや丙木が、目撃後間もなく警察官の事情聴取に際し、その男が持っていた手提げ袋に描かれた絵柄や文字について詳しい図面を作成することができたことによっても裏付けられること、(3)右三名の各証言及び丙坂三夫の司法警察員に対する各供述調書によると、三名とも大阪事件発生後同店に駆けつけた警察官に事情を説明した後、同日夜から翌五日午前にかけて都島警察署で取調べを受けたものであるが、それまでに三名で男の特徴等について話し合うことはなく、また同署の同じ部屋で取り調べられたものの、それぞれ別個に取り調べられたもので、相互に各目撃情況について影響を与えるようなことはなかったこと、被告人に関する新聞報道やテレビニュースが出る前である五日午前三時ころまでに、丙木は、警察官から被告人の写真二枚を見せられ、「髪の毛がもう少し短いが、肌がニキビ跡でデコボコしていてよく似ているし、目、鼻、口もよく似ている。」旨供述し、丙坂も同写真を見て、「顔の輪郭、鼻の感じ、顔の皮膚の感じ、顔と髪の生え方等からして店に二回にわたって来た男に間違いないように思う。」旨供述し、丙泉は、同写真を見てすぐに「あっ、この人。」と言って似ていると供述したことがそれぞれ認められること、(4)以上のように右三名がそれぞれの取調べにおいて一致して被告人を識別している上、当該人物の諸特徴、すなわち、身長、体格、頭髪の状況、容貌(特に丸顔で皮膚がざらざらしていること)の外、着衣の状況に関する各証言が相互におおむね合致しており、着衣については前記「ダイヤモンド」に現われた被告人のものと「赤色の半袖シャツ」という限度で一致し、その余の特徴も被告人のものとよく一致していると思料されること、(5)前記赤色半袖シャツにつきその襟の有無や着用していたとするサングラスの縁の色につき、各証言間に若干の齟齬や供述の変遷があるが、各識別供述の信用性に影響を及ぼす程のものとは考えられないこと(なお、丙泉は、男の所持していた手提げ袋については気付かなかった旨証言するが、前記の同証人が座っていた位置からは男の所持品がカウンターに隠れていたものと考えられる。)の諸点を総合すると、右三名の各識別供述の信用性は高いというべきである。
そうすると、被告人は、大阪事件発生の直前に前記の姿で同犯行現場の階上に現れ、前記のとおり不審な行動をしたものであることが認められる。
4 被告人が他の時点、場所において所持していた手提げ袋と右「ローンズ丙林」現れた人物が所持していた手提げ袋との同一性について
右に見たように、「ローンズ丙林」に現れた人物は、手提げ袋を所持しており、これについて右丙木は、「白っぽいベージュ色で上の方に横に『KYOTO』の文字があり中央部には墨絵で金閣寺が描かれ、また下の方に崩した字で『金閣寺』と書いてあり、大きさは縦七〇センチメートル位、横四〇センチメートル位だった。符二五号の手提げ袋は、その際見た手提げ袋と異なるところがなく、よく似ている。」旨証言し、右丙坂は、「ベージュ色で光沢があり、編んだ感じがした。上の方に黒で横に『KYOTO』の文字があり、図柄については記憶がない。大きさは縦五〇センチメートル位、横三、四〇センチメートル位だった。符二五号は、色、編んだ感じ、つや、文字、大きさから見て、自分が見た手提げ袋と全く同じ物だと思う。」旨証言しているところ、その各目撃内容が十分信用できる状況にあったことは、前述のとおりであり、右各証言と丙木が九月四日中に作成した右手提げ袋の特徴に関する図面(司法警察員作成の「強盗殺人被疑事件発生直前ローンズ丙林京橋店に立ち寄った不審者が所持していた紙袋に描かれた絵柄の図面の入手経過について」と題する書面添付のもの)によると、当時「ローンズ丙林」に現れた人物は、符二五号と同一ないしは酷似した手提げ袋を所持していたことが認められる。
そこで、被告人が他の時点、場所において同様の手提げ袋を所持していた事実が認められるかどうかを検討するに、
(1) 後に詳述するように、被告人は、九月三日午前一〇時三〇分すぎころ、京都市上京区千本下立売角の丙川銃砲火薬店に行き、同店で洋弓の一種であるボウガンとその矢等を購入したものであるが、その際に手提げ袋を所持しており、同店の店員である丙水五夫をして右ボウガン等購入した物を同手提げ袋に入れさせ、その後再度同店へ行きこれを「花田」の名前で同人に預けるなどしたことが認められるところ、右丙水は、右手提げ袋につき「旅行者が持つようなベージュっぽい色の編み込んだようなビニールでできた袋であり、金閣寺か銀閣寺のような寺と五重の塔のような図柄が黒で書かれ、ローマ字で『KYOTO』と書かれていた。大きさは縦七〇センチメートル位、横五、六〇センチメートル位だった。符二五号の手提げ袋がこれと同じである。客から言われて、ボウガン等の品物をこの手提げ袋に入れたのでよく覚えている。」旨証言しており、その証言内容は具体性があり、また、前記のとおり、右客はボウガン等購入した物の入った手提げ袋を持って同店を立ち去った後、再度同店を訪れて右手提げ袋を右丙水に預けたことが認められ、その形状や図柄について印象が残るとともに記憶がよく保持されたものと考えられることからすると、右証言は十分信用することができ、被告人が当時符二五号の手提げ袋と同種の、あるいはこれと酷似するものを所持していたことを認定することができる。
(2) 証人子海北子の証言(第一七回公判)、子海五彦の検察官に対する供述調書、司法警察員作成の「都島警察署管内におけるけん銃使用サラ金強盗殺人事件の容疑者の立ち回り先と推定されるトルコエレガンスに対する鑑識活動実施結果報告書」と題する書面及び大阪府警察本部刑事部鑑識課事務吏員宮辻佳久作成の鑑定書によると、被告人は、九月四日午後四時四五分ころ、大阪市北区曽根崎《番地省略》丙金ビル内の「トルコルビー」に行き、同店三階三六号室の個室浴場のヘルスバスのふたに左手掌紋を遺留したことが認められるところ、その際の被告人の所持品につき、同証人は、「男は、三六号室の入口ドア付近に荷物を置いたが、これはベージュ色の麻でできたような大きい手提げ袋であり、駅や空港でよく見かけるその土地の名前を書いたもので、黒色で木とか家のようなものが書いてあった。上の方を丸めて折り畳むようにして置いており、幅は四、五〇センチメートル位だったと思う。符二五号の手提げ袋は、当時見たものと同じである。表面の感じがそっくりで大きさや絵の色もこんな感じだった。」旨証言しているが、その証言内容は、右手提げ袋の形状等について具体性を有し、また、思い違いをするような事柄ではなく、同証人の体験した事実をそのまま供述していると思料されるのであって、その信用性は高いといわなければならない。そうすると、被告人は、右当時同店において、符二五号と同種の、あるいはこれと酷似する手提げ袋を所持していたことが認められるというべきである。
(3) 更に、証人子田白子の証言(第一九回公判)、司法警察員作成の「強盗殺人事件容疑者の立ち回り先に対する鑑識活動の実施について復命」と題する書面及び大阪府警察本部刑事部鑑識課事務吏員橋詰五郎作成の鑑定書によると、被告人は、九月四日午後五時四五分ころ、同区曽根崎《番地省略》丙銀ビル一階のいわゆるピンクサロンである「サロンサファイヤ」に現れ、同店の便所内側南壁タイル中央部に右手掌紋を遺留したことが認められるところ、その際の被告人の所持品につき、同証人は、「ベージュのチャックのついた手提げ袋で、五重の塔のような寺の絵が書いてあり、男はこれの上の方を折り曲げてつかむように持っていた。符二五号のような手提げ袋だった。材質も似ている。」旨証言しており、前記子海証言と同様、この証言も手提げ袋の形状等につき具体性があって思い違いをするような事柄ではないということができ、また右子田は、被告人が同店に入って来る際と被告人が同店を出る間際に便所に行った際の二回にわたって同手提げ袋を、特にその図柄を見たと証言していることからも同証言の信用性は高いといわなければならず、被告人が右当時同店において、符二五号と同種の、あるいはこれと酷似する手提げ袋を所持していたことも認定することができる。
以上のように、九月四日午後四時前に「ローンズ丙林」に来た人物が所持していた手提げ袋は、被告人が、同月三日前記丙川銃砲火薬店で、更に同月四日大阪事件発生後に前記「トルコルビー」及び「サロンサファイヤ」でそれぞれ所持していた手提げ袋と同種ないしは酷似するものであって、この点も、前記丙木らの識別供述を補強すると同時に被告人がそのころ「ローンズ丙林」に現れたこと自体を裏付けるものといわなければならない。
5 更に大阪事件を目撃した「ローンズ丙谷」の従業員丙島一子は、同事件の犯人につき、「三五から四〇歳、身長一六〇から一六五センチメートル、小太り、スポーツ刈りで丸坊主から少し伸びた頭髪、丸顔、顔の皮膚は色黒で、でこぼこ、ざらざらした感じであった。赤色のかぶりの襟付半袖ポロシャツで胸にボタンが三個位ついたものを着用し、薄い黒のレンズのサングラスをかけ、右手に黒の手袋をしていた。法廷の被告人は、顔色が犯人よりやや白いが、顔の輪郭、頭髪、あご、目、肌の感じが犯人と似ている。九月五日に警察官から六人の写真を見せられ、その中から犯人として被告人の写真を選別し、また同月一二日も検察庁で面割りをした際に被告人を指摘した。一〇月五日検察庁で一枚の写真(司法警察員作成の九月八日付身体検査調書添付の番号四の写真)を見せられたが、犯人とほとんど一緒だった。髪や顔の輪郭、色黒であり、肌が汚いところ、右目の下がったところ、目が奥二重のところが似ていた。しかし、捜査段階では、被告人と犯人が同一だと断定したことはなく、似ていると言っただけである。」旨証言しており(第一五回公判)、同証人は、捜査段階においてもほぼ同様の供述をしているところ(右丙島の司法警察員に対する各供述調書三通。なお、そのうち九月五日付調書には、六人の写真を見せられ、被告人の写真を選別した際のものとして、これが一番よく似ており、この男に間違いないと思う旨の供述記載がある。)、同女が事件発生直後一一〇番通報した内容のうち犯人の特徴に関する部分も「犯人は男一名、三〇から四〇歳、一見やくざ風、スポーツ刈り、赤色の半袖ポロシャツ姿でサングラス着用」となっており(司法警察員作成の「ローンズ『丙谷』におけるけん銃使用による強盗殺人事件の一一〇番受理状況について」と題する書面)、これは右証言内容と部分的ではあるがよく合致していること、九月四日付及び同月五日付供述調書中の識別供述は、未だテレビや新聞報道の影響を受けるおそれのない間になされたものと考えられること、同女は犯人が発砲後、恐怖、狼狽して犯人の顔等を見ることができなかったと証言するが、犯人が発砲して被害者の乙川二郎が倒れるまでは本当の強盗かどうか判断がつかず、右乙川の態度を見て冗談だとも思ったと証言しているのであって、その間は比較的冷静に男の顔や着衣等の特徴を観察しえたと認められること、同女と右乙川にけん銃を突きつける等していた犯人とはごく近い距離にいたこと等を併せ考えると、右丙島の犯人の特徴に関する供述については十分これを信用することができるというべきである(また、同様の理由により、右丙島の識別供述自体の信用性についても、これを肯認することができる。)。
そうすると、大阪事件の犯人は、赤色半袖ポロシャツ及びサングラスと黒手袋の着用といったそれ自体際立った特徴において、同事件発生の直前に「ローンズ丙林」に現われた被告人の姿と同一であることが認められ、別個の人物がそれぞれ右のような姿で偶然に「ローンズ丙林」と「ローンズ丙谷」に相次いで現れたという可能性はごく小さいといわなければならず、また、右丙島の証言に係る犯人の身長、体格、頭髪の状態、容貌等その余の諸特徴も被告人のそれとよく合致しているものということができる。
6 以上の不利益事実に対して被告人は公判廷において大阪事件発生後に京阪京橋駅に着いたと強弁するのみで何ら首肯するに足る説明をしていないことを併せ考慮すると、上記の事実は被告人が大阪事件の犯人であることを窺わせる重要な間接事実というべきである。
四 被告人が、大阪事件発生後、大阪市北区のいわゆるピンクサロンに現れ、同所でそれまでの着衣すべてを着替え、九月五日の逮捕時には、右の際に脱いだ衣類を全く所持していなかったこと
1 前記認定のとおり、被告人は、九月四日午後五時四五分ころ、大阪市北区曽根崎《番地省略》所在の「サロンサファイヤ」に現れて同店の便所内側南壁タイル中央部に右手掌紋を遺留したものであるが、同店内での被告人の言動につき、前記子田は、「被告人は、当日の最初の客であり、一〇万円位を支払ってホステス全員を指名した後、ホステスの自分に『着替えをしたい。』ということで、白ポロシャツ(特に色を白と指定したものである)、ズボン、下着、靴下、縦横四〇センチメートル位のカバンを買ってくるよう言って五万円を渡した。そこで、店員の子島七彦に頼んでこれらを買ってきてもらったところ、被告人は同店内でそれまでの着衣をすべて脱いで買ってきたものと着替え、脱いだ衣類は店に来たときから持っていた手提げ袋に入れた上、これを買ってきたボストンバッグに入れ、入店してから約一時間後に出て行った。」と証言しているところ、右証言は、当日の最初の客がホステス全員を指名した上、ホステスに衣類等の買い物を依頼し、店内でそれまでの着衣をすべて着替えたという非日常的ないしは特異な体験を内容とするものであって、思い違いや記憶違いをするような事項とは到底考えられず、同店のホステス子林赤子(第二一回公判)及び前記子島七彦(第二三回公判)の各証言内容ともよく符合するものであって、十分信用することができ、被告人が同証言どおりの言動を示した事実は、これを認めることができるというべきである。
2 そして、司法警察職員作成の捜査差押調書(逮捕時の被告人の所持品に対するもの)によると、被告人が九月五日に逮捕された際には、同店で脱いだ衣類及びその際これを入れた手提げ袋やボストンバッグを所持していなかったことが明らかであり、また、前記子島、証人子森九彦(第二三回公判)及び同子坂十彦(第二七回公判)の各証言、司法警察員作成の九月一四日付「遺留品発見報告書」と題する書面、符二六号のナイロン製ボストンバッグ等を総合すると、前記のように九月四日子島が買ってきて被告人に渡し、被告人が脱いだ衣類を手提げ袋に入れ、更にこれを入れたボストンバッグは、そのメーカー名その他の特徴及び発見に到った経緯等からして符二六号のバッグと認められ、同バッグは東京都江戸川区篠崎町三丁目二番地先の江戸川右岸河川敷内において上げ潮により漂着して打ち上げられたような状態で、しかもチャックが全開して内部に何も入っていない状態で発見されたことが認められるのであって、これらのことから被告人において右衣類ないし右バッグを右江戸川に投棄したことが窺われるが、このように着衣を処分しなければならない理由ないし必要性としては、それが何らかの犯罪の証拠となる等これを人目に触れさせたくなかった事情があったものと考えるのが相当である。
3 被告人は、公判廷において、その時刻ころ「サロンサファイヤ」を訪れた事実自体は認めるものの、ホステス全員を指名した事実及び着替え等をした事実についてはこれを否認するのみで首肯しうる説明をしていないことをも併せ考慮すると、被告人は、そもそも遊興等を目的として同店に入ったものではなく、当初から着替えをする目的で同店に入ったものと認められ、その後脱いだ衣類をそれを入れていた手提げ袋等とともに処分したものであって、この一連の行為は、大阪事件の犯人が犯行時の着衣(赤色半袖シャツ等)を着替えて犯跡の隠蔽を図ったものと推認すべき間接事実ということができる。
五 被告人の当時の所持金と費消状況について
1 司法警察職員作成の捜索差押調書(逮捕時の被告人の所持品に対するもの)及び「加古川刑務所出所時の所持金品、服装の捜査結果について」と題する書面、甲田花代の検察官及び司法警察員に対する各供述調書によると、被告人は、加古川刑務所出所時には、領置金の残金九四二円と作業賞与金二万五六四一円の計二万六五八三円を所持していたこと、その後、妻花代から、かねて頼んでいた二〇万円を受け取ったこと、九月五日夕方に逮捕された際には、一四万二六五〇円を所持していたことがそれぞれ明らかである。
2 次に前掲関係証拠によって認められる、右出所時から逮捕されるまでの間の被告人の金員費消状況をみると、大口のものだけでも、京都・千葉間の新幹線等利用料金(一往復半)約三万五〇〇〇円、丙川銃砲火薬店におけるボウガン等の購入代金八万円(この点は後に詳述する。)、「トルコルビー」での入浴代や遊興代二万円、「サロンサファイヤ」でのホステス指名料一〇万円、着替え用衣服等の代金五万円などがあり、その他、宿泊代、食事代、タクシー代など相当額を費消したものであり、これらの全費消金額と逮捕時に持っていた一四万円余の合計額は、前記出所時の作業賞与金等と妻からの二〇万円の合計額を大きく上回るものと見られる。
特に、他に入手金がなかったとすると、九月三日までの費消状況に鑑み(即ち、前記ボウガン等の購入代金八万円と京都と千葉の往復に際しての新幹線代の合計だけでも、前述の作業賞与金等と妻からの二〇万円の合計額から逮捕時の所持金一四万円余を控除した額を上回ることが明らかである)、大阪事件直後における「トルコルビー」での料金二万円、「サロンサファイヤ」でのホステス全員の指名料一〇万円と衣服等の代金五万円の合計一七万円余については、被告人において支払えなかったものといわなければならない。
3 そこで、被告人がどのようにしてその超過分の金員を入手したかが問題となるところ、この点につき被告人は、公判廷において、八月三〇日に琵琶湖ホテルの前で前記丁川から二〇万円をもらった旨弁解しているが、右は捜査段階における否認供述と大きく異なり、公判段階で初めてなすに至った弁解である上、右二〇万円を貰った経緯や理由について述べた部分も、不自然、不合理といわなければならず、前述のように被告人がそのころ丁川と会ってその後の行動を共にしたとの公判供述自体信用し難いことを併せ考えると、被告人の右弁解は到底信用できないものといわざるを得ない。
4 そうすると、被告人は、相当額の金員、特に大阪事件直後に使った計一七万円余の入手経路を明らかにできないままでいるものといわなければならず、換言すると、当時被告人に出所を説明できない一〇万円単位の収入があったことが認められ、この点も被告人が大阪事件の犯人であり、強取金を費消していたことを窺わせる一つの事情ということができる。
六 京都事件と大阪事件の犯人の同一性について
これまで種々検討してきたように、各事件につき被告人が犯人であることの間接事実がそれぞれ認められるのであるが、更に、両事件の犯人が同一人であること自体を示す事実が認められるかどうかは、それが認められれば、各事件についての間接事実が相互に補強し合うことになるという意味においても重要であるので、次に検討する。
1 乙山巡査が奪われたけん銃と各犯行に用いられたけん銃との同一性について
福岡県警科学捜査研究所技術吏員池田浩理作成の鑑定書、証人池田浩理の証言(第三七、三八回公判)、京都府警科学捜査研究所技術吏員久保博作成の「北区船岡山公園における警察官殺害けん銃強奪事件に係る被害者乙山一郎貸与のけん銃の試射弾丸及び試射薬きょうの登録保管について」と題する書面及び証人久田博の証言(第三回公判)を総合すると、京都府警では、国家公安委員会規則に基づき、各警察官に貸与するけん銃については、試射を行った上、試射弾丸と試射薬きょうを銃番号により登録し保管する扱いになっており、乙山巡査に貸与されていたけん銃に関しては、符二〇号の弾丸が同けん銃の登録試射弾丸であること、乙山巡査の体内から摘出された弾丸(符一八号)及び乙川二郎の体内から摘出された弾丸(符一九号)は、その各全長、重量、直径等の諸元値及び銃腔の腔綫によって弾丸表面に形成された発射痕の形状(回転の方向、腔綫の数、腔綫痕幅、腔綫痕の傾き角度等)から見て、いずれも警察庁において供用されている口径〇・三八インチのニューナンブ回転弾倉式けん銃から発射されたものであり、これは符二〇号の弾丸を発射したけん銃と同種類のけん銃であることが認められる。
右事実に、京都事件においては、警察官が殺害されてその携帯していたけん銃が強奪されたこと、大阪事件は、京都事件発生の約三時間後に京都・大阪間を結ぶ京阪電鉄の京橋駅の近くで発生したものであること等を併せ考えると、既にそれだけでも両事件の犯人が同一人である蓋然性が高いというべきである。
そこで更に進んで右三個の弾丸がその各腔綫痕の形状から見て果たして同一の銃から発射されたものと認めることができるかどうかについて検討するに、当裁判所が鑑定を命じた福岡県警科学捜査研究所技術吏員池田浩理は、同一銃から発射されたものと断定しているところ(同人作成の鑑定書及び同人の証言)、該鑑定の信用性を判断するに当たっては鑑定の方法及び結論に至る過程に科学的合理性があるかどうかが重要であるが、同鑑定は、各弾丸の腔綫痕(条痕)を相互に比較検査するにつき、条痕をその形成過程に基づき
A 銃腔起綫部との衝突により形成されるもの
B 銃腔内に進入を開始した弾丸が直進運動から腔綫に沿った回転運動に移行する間に形成されるもの
C 腔綫に沿った回転運動に伴う弾丸の導側面(ドライビングエッジ)に平行に形成されるもの
D 銃腔内を通過する間に、綫丘の導側面が弾丸表面を切削し、その際生ずる金属粒子の銃腔内残留によって次弾に形成されるもの
の四種類に分類し、原則として同種類の条痕を比較すべきであるとし、そのような方法で各弾丸を相互に比較検査した結果、各弾丸にはそれぞれ共通の条痕が多数存在するのに対し、各弾丸が別個の銃から発射されたことを疑わせるような痕跡は全くなく、同鑑定人自身の五〇〇ないし六〇〇件の鑑定経験やそれまでの研究成果を基に前記結論を導くことができるとしているところ、右鑑定の方法については、十分な合理性があると考えられ、未だ明確な統計的根拠がないとしても、同鑑定人のこれまでの実験結果や研究成果及びこの種の銃器鑑定に関する諸報告の内容に照らして、右結論を導く過程に不合理な点はないと思料されるのであって、右結論はこれを肯認することができるものというべきである。
2 そうすると、前記三個の弾丸は、いずれも同一の銃(乙山巡査が携帯していたけん銃)から発射されたものであることが認められ、また本件では、共犯の存在は証拠上窺えないことを考えると、両事件の犯人は同一人であるということができる。
七 まとめ
以上の検討の結果を総合すると、被告人の自白以外の証拠によって認められる右一連の間接事実は、それだけをもってしても、本件の犯人が被告人であることにつき、高度の心証を形成するに足りるものというべきであり、また、被告人の自白のうちこれに対応する部分の信用性を担保するものということができる。
第四被告人の九月三日における行動について
京都、大阪両事件発生の前日である九月三日の被告人の行動は、本件各犯行の動機や犯行態様等を推認する上で重要と考えられるので、以下、検討することとする。
一 丙川銃砲火薬店でボウガン等を購入した事実の有無について
1 証人丙水五夫(第四、第五回公判)、同丑川一男(第三一回公判)及び前記丁丘二雄の各証言、証人東巌に対する当裁判所の尋問調書、丑山三男の検察官及び司法警察員に対する各供述調書、丑海黄子の司法警察員に対する供述調書、司法警察員作成の「丙川銃砲火薬店から任意提出を受けた証拠品(納品伝票、レシートテープ)の謄本作成について」、「ボーガン銃ようの弓(アルミ製)の発見について」(不同意部分を除く)、「捜索中に発見した参考資料の保管状況について」及び「被疑者供述に基ずく遺留現場における手袋任意提出経過復命書」と各題する書面並びに一〇月一五日付実況見分調書(不同意部分を除く)、司法巡査作成の「ボウガン銃の銃床の発見について」及び「ボウガン銃ようの先台の発見について」と各題する書面(不同意部分を除く)、押収してある木製ボウガン銃の銃床の部分一個(符一一号)、本製ボウガン銃の先台部分一個(符一二号)、ボウガン銃の弓(アルミ製)一個(符一三号)、ボウガンの矢五本(符一四号)及び手袋一枚(符一〇号)を総合すると、以下の事実を認めることができる。すなわち、(1)九月三日午前一〇時三〇分すぎころ、京都市上京区千本通下立売角所在の丙川銃砲火薬店に一人の男の客が現れ、洋弓の一種であるボウガンについて同店の店員丙水五夫の説明を受けた後、モデル一三〇〇型のボウガン一丁、その矢一セット(六本)、射撃用手袋一双、サングラス一個を計八万円で購入し、その品物を右丙水をして持参していた観光者用の手提げ袋の中に入れさせ、同一〇時五六分ころ代金の支払いを済ませて店を出たが、その二、三〇分後に再び来店し、「的を狙って撃ったが、左の方にそれる。」などと言って右丙水に照準の仕方等を説明してもらい、その後、「花田」と名乗って前記品物が入った手提げ袋を同人に預けたところ、同人は、右人物が同日午後六時の勤務終了時までに品物を取りに来なかったので、店長の丑山三男にことづけて帰り、その後同店長が来店した「花田」と名乗る人物にこれを渡したこと、(2)京都事件発生後、京都府警の警察官が、犯行に使われた刃物に関する聞き込み捜査の一環として同店を訪れ、右丙水に被告人の写真を見せた上「ナイフを売ってないか」と聞いたが、同人は、ボウガンを売った前記客とは考えつかなかったので、そのような客にナイフを売ったことはないと答えるにとどまっており、したがって捜査側としては、九月三日における前記ボウガン等販売の事実を全くつかんでいなかったこと、(3)被告人は、一〇月九日の検察官調べの際、丁島という人物に与える目的で九月三日右丙川銃砲火薬店で「花田」という偽名を用いてボウガン等を買った旨供述するとともに、そのボウガンの形状、同店の所在地及び品物を入れた買物袋の形状について略図を作成したので、翌一〇日、大阪府警の警察官が、右ボウガンの形状及び丙川銃砲火薬店の所在地を示す各略図の写しと被告人の写真を持って、京都に行ったところ、そのとおり同店の所在及びボウガンの販売について裏付けが取れたこと、(4)また、被告人は、一〇月八日の検察官調べに際し、「九月四日午後七時ころ丁島という人物と国鉄山陰線の丹波口駅北側の高架下に行き、そこで同人がポケットから皮製の手袋一組を出してフェンス越しに投げ捨てた。」旨供述するとともに、その手袋の形状と投げ捨てた場所について略図を作成したので、翌九日、その裏付け捜査を実施したところ、ほぼ略図どおりの場所である国鉄山陰線丹波口駅の駅舎北側の高架下近くにある京都市下京区中堂寺北町九の三の当時の日本専売公社関西支社遊休倉庫敷地において、金網フェンスから二・五メートル余り内側で射撃用手袋(左手用)一枚が発見、領置されたが(符一〇号)、これは九月三日に前記丙川銃砲火薬店でボウガン等とともに後で「花田」と名乗った客に売られたものと同一のものであったこと、(5)また、被告人は、一〇月九日の検察官調べに際し、ボウガンは結局丁島が船岡山の木の茂みの中に捨てた旨供述し、その場所につき略図を作成したので、京都事件発生後の現場周辺における検索により発見されたものの事件との関連性が明らかでなかったため西陣警察署裏ガレージの中に保管してあった多数の物件を再点検したところ、その中にのこぎりで切断されたと見られるボウガン銃の銃床部分と先台部分及び弓があることが確認され(符一一ないし一三号)、これらは、九月三日に前記丙川銃砲火薬店で販売されたものと同一のものであり、同月七日から一三日までの間の検索により船岡山公園頂上南東側の建勲神社境内山林内から発見されたものであって、同発見場所は被告人作成の右図面に記載された位置とよく一致していたこと、(6)更に、被告人は、一〇月一三日の検察官調べに際し、ボウガンの矢を捨てた場所について略図を作成したので、翌一四日にその裏付け捜査を実施したところ、ほぼ同図面どおり、京都市下京区中堂寺坊城町四五番地所在の京宝倉庫空地南側植え込み内からボウガン用の矢五本が発見、領置され(符一四号)、これも九月三日丙川銃砲火薬店で販売されたものと同一のものであったことの各事実が認められる。
そうすると、被告人の供述によって初めて前記丙川銃砲火薬店において後に「花田」と名乗った人物がボウガン等を購入した事実が判明した上、被告人の指示した場所から右販売に係るボウガン銃、その矢及び射撃用手袋が発見されたのであるから、被告人が他から聞くなどして右各事実を知るに至ったことを示す事情が認められないかぎり、被告人自身がこれらの物を購入し、かつ、処分したものと推認すべきこととなる。
そこで、右事情の有無が問題となるが、この点につき被告人は、公判廷において、ボウガン等を購入した事実は認めるものの、自分自身が丙川銃砲火薬店に赴いて買ったのではなく、前記丁川に買わせたものであると弁解し、大要、「八月三〇日に丁川にボウガンを買っておいてくれと頼み、九月一日夜東京の姉方から丁川に電話して、その旨を再確認した。同月三日午後三時二〇分ころ船岡山公園の頂上で丁川と会ったところ、同人はボウガンを買ってきており、三叉路の所で同人にボウガンの試射をさせたが、同人が『こんなもんあかんで』などと言ったので、たまたま同人がその妻に頼まれて買ってきていたのこぎりでボウガンを切断させて西南側の林に捨てさせた。同人が『花田』という名前でボウガン等を購入したことは『花田様』と書かれた紙片がついていたのでわかった。ボウガンの矢九本位は同所では捨てず、その後同人と五条通りの山陰線の西方を歩いていた際、子供がけんかをして泣いていたので、丁川がその子供にボウガンの矢を与えたところ、子供の母親が来て『こんな危ないもの』と言って子供から取り上げ、歩道上の植込みに捨てていた。その後山陰線のガード下で丁川が手袋をはめたところこれが破れたので、同人はその手袋を捨てていた。」旨供述している。しかしながら、前述のとおり当時丁川という人物と行動を共にしていたということ自体信用することができないし、また、捜査官に対しては自ら丙川銃砲火薬店に行ってボウガン等を購入したことを認めており、その点につき、「丁川がボウガンに触っているのでその指紋が出る筈であり、その指紋から同人を探してほしかった。自分で買ったと言った方が捜査官に与えるインパクトが強いと思った。」などと説明しているが(第四二回公判)、趣旨不明で、合理性を有するものとは考えられず、結局、被告人のボウガン等の購入及び処分に関する公判廷での前記弁解は虚偽のものと断ぜざるを得ない。その他、被告人が他から聞くなどしてボウガン等の販売及び処分に関する前記の事実を知るに至った事情は何ら認められないのである。
2 証人丙水五夫の識別供述について
証人丙水五夫は、九月三日丙川銃砲火薬店でボウガン等を購入した客につき、「四〇歳すぎ位の男で、身長は一六五センチメートル位、短く刈り込んだ頭髪で、小柄ながらがっちりした体格だった。一〇月一〇日大阪府警の警察官から被告人の写真を見せられたとき、断定はできないがよく似ていると供述した。法廷の被告人は、当日の客に間違いないと思う。」旨証言しているが、同時に、京都事件発生後テレビや新聞で被告人の顔を何度か見たがボウガン等を売った客だとは気付かなかった、京都府警の警察官が来店して「廣田にナイフを売ってないか。」と聞かれた際も(なお、このときに被告人の写真を見せられたかどうかははっきりしない。)、右客のことは思い浮かばず、売った記憶はないと答えた旨証言しており(第四、五回公判)、その識別供述の信用性が問題となるところ、同証人は、九月三日丙川銃砲火薬店で右客と二回にわたって接触し、いずれもボウガンの撃ち方を時間をかけて説明するなど客を観察するのに十分な時間的余裕があったと考えられること、本件ボウガンの件を初めて聞かれた一〇月一〇日警察官に対し、客と被告人がよく似ていると供述して以来、同供述は一貫していること、同証人は、九月三日当時同客につき特に不審感等は抱かず、通常の客として接したものであり、テレビや新聞で被告人の顔を見たり、京都府警の警察官から廣田にナイフを売った記憶はないかと尋ねられても、同客と京都事件とを結びつけて考えていなかった以上、被告人がその客であるかどうかの点につき何ら感ずることがなかったとしても、必ずしも不自然ということはできないこと、また、同証人は、テレビや新聞での被告人は顔はいずれも目が鋭く怖い感じがし、客はもっと穏やかな顔をしていたので気付かなかったと述べてこの点を説明していることの諸点に徴すると、同証人の前記前段の識別供述は、信用することができるというべきである。
以上検討したところによると、被告人は、九月三日午前中に前記丙川銃砲火薬店でボウガンやその矢等を購入し、その後、ボウガン銃本体を切断するなどしてこれらを処分した事実を認めることができる。なお、右処分の時期については、これを確定するに足りる証拠がないが、京都事件発生前に処分したことは疑いないと考えられるので、この点については、判示のとおり幅のある認定をした次第である。
二 虚偽の申告により警察官をおびき出そうとした行為及び丙山質店に対する行為について
1 被告人の自供内容と関係証拠について
被告人は、検察官に対する一〇月二四日付供述調書(本文一八丁綴りのもの)において、九月三日夕方から夜にかけて、警察官からけん銃を奪うため、太秦警察署嵐山派出所と西陣警察署十二坊派出所にそれぞれ電話をかけ、これに出た各警察官に対し放置バイクがあるから来てほしいなどという内容の虚偽の申告をして各警察官をおびき出そうとしたが、結局、二回とも警察官と出会えずに失敗し、その後、警察官時代に出入りしていた老夫婦経営の丙山質店での強盗を企て、警察官を装って同質店に電話をかけ、そこの主人を外におびき出そうとしたが断られ、次いで再度電話をかけ、同質店の玄関戸を開けさせておいて同所に赴いたが、鉄格子付きのカウンター内から同夫婦が出て来なかったため、結局これも失敗した旨自供しているところ、証人東巌に対する当裁判所の尋問調書及び被告人作成の一〇月二三日付上申書によると、既に本件で起訴済であった被告人が東検察官に対し話したいことがあるので来てほしい旨伝えて前記供述調書が作成されるに至ったもので、被告人が当時右各事案につき捜査側から追及されていたことはないと認められるのであり、被告人自らこれらの事実を供述するに至ったと考えざるを得ず、更に右自供内容は、証人丑谷五男(第二八回公判)、同丑田六男(第三〇回公判)、同丙山秋子(第二八回公判)及び同丙山夏夫(同公判)の各証言やその他の関係証拠の内容と符合しており、また、被告人の自供内容や右各証言内容に不自然な点はなく、いずれも十分な合理性を有すると見ることができ、被告人が九月三日夜、嵐山派出所の警察官のおびき出しに失敗し、嵐山渡月橋付近の相互タクシー乗り場から「丑島」というごく珍しい名前の運転手が乗務するタクシーに乗って、十二坊派出所近くの千本北大路まで行ったとの自供部分は、丑島七男の検察官に対する供述調書によって認められる当日の乗務記録の内容によって裏付けられているのであって、以上に徴すると、被告人の上記自供内容の信用性は高く、優にその旨の事実を認定することができるというべきである。
2 被告人の公判弁解について
右に反し、被告人は、公判廷において、二回にわたり警察官をおびき出そうとした行為及び丙山質店の件をいずれも否認しているので、前記の検察官に対する一〇月二四日付供述調書で上記のような供述をするに至った理由が問題となるところ、この点につき被告人は、大要、「本件起訴後、被告人の無実を証明してくれる丁川を京都府警の警察官に探してもらおうと思い、その旨を東検察官を介して同府警に頼もうと考えた。そこで同検察官に上申書を書いて拘置所に来てもらい、丁川のことを話し、京都府警の方に移監してほしいと言ったところ、同検察官から被告人を京都府警に移す材料がないと言われたので、その材料を作るため、嵐山派出所と十二坊派出所の件及び丙山質店の件を被告人の行為として認めることにした。これらの事案の具体的内容については、京都拘置所に勾留されていたときに、塚本弁護人から新聞を見せてもらって概略知っていたし、京都府警の警察官からも聞いて知っていた。」旨供述している(第四〇回公判)。
しかし、被告人の丁川という人物に関する弁解を信用することができないことは、繰り返し述べたとおりであるし、右各事案の内容につき、たとえ新聞を読んだことがあったとしても、前記供述調書の記載程度に詳細、具体的にその内容を知り、かつ記憶していたとは考え難く、また、右供述調書の内容に照らすと、捜査官が右各事案の詳しい内容を教示したとしている点も疑問であり、更に移監を求める理由自体不可解であって、結局、被告人の右弁解は、信用しえないものといわなければならない。
三 以上のように、被告人は、九月三日京都に着いてすぐの午前一一時前に既にボウガンという凶器を購入し(ステンレス製包丁もそのころ購入したことは前述のとおりである。)、その後けん銃を奪うために二回にわたり警察官をおびき出そうとし、更に質点に強盗に入ろうとしたものであって、被告人は、そもそも同日京都に来た目的自体が警察官からけん銃を奪う、あるいは強盗することにあり、そのため事前に凶器を準備したもので、乙山巡査に対しても同様おびき出してけん銃を奪ったものであるとの推認が働くものというべきである。
第五被告人に対するその余の目撃証言について
これまでに掲げた被告人に対する各目撃証言以外にも判示認定につき重要と思料される目撃証言が存するので、ここで検討を加える。
一 京都事件発生前における証人丑丘二男及び同丑林緑子の各目撃証言について
1 証人丑丘二男は、西陣警察署十二坊派出所近く(西方)の京都市北区《番地省略》に居住するものであるが、「九月四日午後零時に、昼食をとるため勤め先をオートバイで出て自宅へ向かい、同零時七、八分ころ自宅に着いたが、自宅に着く寸前自宅の近くの道路を歩いている被告人を見た。その際、被告人の一メートル位横を通って擦れ違う時『ああ廣田や』と思った。被告人は茶色のサングラス(薄い茶色のレンズ)をかけており、目が見えた。頭髪は丸坊主が少し伸びた感じだった。」旨証言しているところ(第五回公判)、右証言内容に不自然、不合理な点はなく、目撃の状況について具体性及び臨場感があること、同証人は、以前から同派出所近くに住んでおり、被告人が昭和五三年の前件の犯行以前に同派出所に勤務していたのを見たことがあった上、前件時のテレビ報道で犯人の顔と名前を見聞して被告人の名前が廣田であることを知ったと証言しており、同証人が前記目撃前から一方的ではあるが被告人の容姿及び名前を知っていたと認められ、一般にこのような既知の人物に対する識別は、そうではない人物に対する識別より正確になしうると考えられること、同証言よると、同証人は、九月四日夜、父親に対し「今日昼に被告人を見た。」と話し、翌日の新聞の朝刊に京都事件の犯人は元警察官で船岡山公園の地理に詳しい者ではないかとの記事があったので、廣田が犯人ではないかと思い、会社の同僚にその話をし、父にも勧められたので、同日晩一一時ころ十二坊派出所に前記目撃の件を届け出たことが認められることなどを併せ考慮すると、右証言及び識別供述の信用性は高いといわなければならない。
2 証人丑林緑子は、船岡山公園北西側の同公園正門のすぐ西側に居住するものであるが、「九月四日午後零時三〇分ころと思うが、自宅玄関先で、乳児に外気浴をさせていた際、不審な男を目撃した。その男は、長さ五〇センチメートル位の棒様あるいは円筒様の物を手と一体にくくりつけた感じで持ち、それを白い切れか紙でくるみ、その上からベージュ色様の紙か布様のものをウェイターがするように垂らし、腕を前に突き出すようにしており、目の前を通って公園正門を入り、正門の近くに設置された公衆電話でどこかに電話していた。その前から約二、三〇分間同玄関先にいたが、オートバイの乗った警察官が通ったことはなかった。その後自宅内に入りしばらくして同公園正門付近にパトカーや救急車が来て騒がしくなった。公判廷の被告人はその男に似ている。」旨証言しているところ、男の持ち物に関する証言内容は、具体的であるとともに特異性もあること、同証人は、男を見てその持ち物が変わっていることから不審に感じ、その後意識的に男を観察した旨証言していること、同証人は、自宅の北にある喫茶店「真珠」の前辺りを歩いている男に初めて気付き、その後男が近づいて来て自己の前方二メートル弱位の所を通って公園に入るのを見ていたとしており、その観察時間や男との位置関係等目撃の条件も良好であったと認められること、同証人は目撃当日警察官から四枚の別人物の写真(符五号)を見せられて、被告人の写真を指摘したものであり、その後テレビや新聞で被告人を見た際もよく似ていると思った旨証言していること、その他同証言に係る被目撃者の年齢、身長、体格、頭髪の状態、容貌(丸顔で浅黒い)、当時の着衣等の特徴が被告人のものと一致することなどの諸点を総合すると、右証言及び識別供述の信用性は高いというべきである。
3 そうすると、被告人は、乙山巡査が十二坊派出所を出発した午後零時四二分の約三五分前に同派出所の近くにおり、次いで(前記丑丘証人方から同公園までの徒歩による所要時間については、同証人は一〇分前後と証言している。)船岡山公園北西側の同公園正門付近に現れ、同所の公衆電話でどこかに電話し、その後少しして同巡査が同公園内の被害現場に赴いて京都事件が発生したものであって、右事実自体が直ちに被告人と京都事件の犯人との同一性を窺わせる間接事実になるとまではいえないものの、以下に検討する被告人の自白のうち、被告人が九月四日昼すぎころ、警察官をおびき出すため、船岡山公園北側入口の公衆電話から十二坊派出所に電話したとの部分と符合し、これを裏付けるものといわなければならない(なお、被告人が、同日午後一二時七、八分ころ十二坊派出所の近くにいたという事実については、被告人が同派出所に電話をかけて警察官をおびき出すに当たり、あらかじめ同派出所内の様子を窺ったことを推認させるものということができる。)。
二 その余の目撃証言について
1 京都事件発生前の目撃証言として、他に丑森黒子(第二五回公判)、丑坂青子(第一〇回公判)及び寅川一之(第六回公判)の各証言があり、検察官は、各被目撃者はいずれも被告人である旨主張しているところ、右丑坂及び寅川の各識別供述については、両証人とも当該人物の顔等を十分観察することができなかったものと認められ、同識別供述自体があいまいである上、被目撃者の着衣、所持品、容姿等の特徴に関して述べる部分も、それだけで同人物と被告人との同一性を認めるには足りないといわざるを得ず、また、丑森証人については、同証人は、当時食料品店の店番をしていたものであって、客との応対に追われていた上、店内のレジの傍からガラス戸越しに、店外にいる当該人物の右横顔だけを見たというものであり、九月五日以降にテレビや新聞で被告人の姿を何回か見たが、目撃した男と同一だとは断定できなかったと証言している点などから見ても、同識別供述の信用性は直ちに肯認し難く、結局、右三名の各証言に係る被目撃者と被告人との同一性を認めることはできないというべきである。
2 また、検察官は、大阪事件発生後、その現場近くの京阪京橋駅タクシー乗り場から大阪市北区の梅新交差点付近まで一人の男性客を乗車させたとするタクシー運転手寅丘二之の証言(第一六回公判)につき、右客は被告人である旨主張するが、同識別供述については、客の着衣(上着)の色も覚えていないとしている上、法廷の被告人を見ても当日の客との同一性につきさして確実な証言をしていないことなどに照らして、さほど信用性が高いものとは考えられず、右寅丘が乗車させた客が被告人であるとは認め難いといわなければならない。
第六被告人の自白の信用性について
一 概括的評価
前記のとおり、被告人は、一〇月一一日以降、京都、大阪両事件はいずれも被告人の単独犯行である旨自白するに至ったものであり、その任意性については前記のとおりこれを肯定することができるのであるが、右自白内容を見ると、京都へ来た本来の目的が強盗であったのかあるいは前件の取調官に対する報復にあったのかという点、京都事件が偶然による犯行か計画的な犯行かという点、乙山巡査と出会ってからの被告人や同巡査の言動、被告人がけん銃や犯行時の着衣等を隠匿あるいは遺棄して処分した時期や場所等の自白の重要部分が短期間で大きく変遷しており、また、乙山巡査が発砲したとする部分や「ローンズ丙谷」の乙川二郎の被告人に対する言動等直ちに信用することができない箇所もあり、右自白に至るまでの被告人の従前の弁解の変遷経過をも考慮すると、被告人の自白は、認めざるを得ない部分を最小限認め、しかもその場合でも、できるだけ自己に有利な形で供述し、あるいは虚偽の事実を取り混ぜているものと考えざるを得ず、本件の全貌を明らかにしたものとは到底いえないのであって、その信用性については、基本的には、これまでの検討により証拠上明らかになった事実に裏付けられた部分及びその他の証拠による裏付けがある部分のみ信用するに足りるものというべきであり、このような裏付けのない部分は、結局措信しえないものという外ない。
二 具体的内容について
1 自白内容にいわゆる「秘密の暴露」があるか
被告人は、司法警察員に対する一〇月一一日付供述調書において、「ローンズ丙林」か「ローンズ丙谷」のどちらかにいるとき、交番所が見えた旨供述し、更に同月一二日付の被告人作成の「ローンズ丙谷」における大阪事件の犯行の状況を説明した図面にも、窓越しに交番所が見えたような気がする旨の記載があるところ、検察官は、右は犯行現場に行った真犯人でなければ知り得ない事実であって「秘密の暴露」に該当し、被告人の自白の信用性を裏付けるものであると主張し、また、証人福田登の証言(第三〇回公判)及び司法警察員福田登作成の同月一九日付実況見分調書(不同意部分を除く)によると、大阪事件当時、「ローンズ丙谷」内の犯人が立っていた位置から南側窓を通して交番所(大阪府都島警察署京橋派出所)が見えていたことが認められるが、この点が犯人しか知り得ない事実であるかどうかについては、右被告人の自白の時点(同月一一日及び一二日)までに同現場において実施された実況見分や検証により、捜査官もこれに気付きうると考えられるのであって、結局、右供述をもって、「秘密の暴露」とまでいうことはできないといわなければならない。
2 九月三日の行動に関する自白について
被告人が九月三日の夕方から夜にかけて、太秦警察署嵐山派出所と西陣警察署十二坊派出所の警察官をおびき出そうとしてなした行為及びその後丙山質店の経営者に対してなした行為自体に関する各自白が高い信用性を有することは前述のとおりであり、また、同日午前中に前記丙丘刃物金物店で包丁とのこぎりを、前記丙川銃砲火薬店でボウガン等をそれぞれ購入したことを認めた自白も、前述のとおりこれを裏付ける諸事実が認められ、十分信用することができる(なお、この点に関する被告人の自白は、包丁は出刃包丁を二本買い、ボウガンの矢は一〇本あったとしていて、前掲関係証拠により認められるところと差異があるが、右自白の信用性に影響を及ぼすものとは考えられない。)。
3 九月三日の行動の目的について
しかし、被告人が九月三日に京都に来て包丁やボウガン等を購入した理由については、司法警察員に対する一〇月一一日付供述調書では、「強盗をする目的」としているのに対し、その後の検察官に対する同月二四日付供述調書及び司法警察員に対する同月二五日付供述調書では、「前件の取調官に対する報復のため」とし、更に、右各供述調書において、九月三日にけん銃を奪うため二回にわたり警察官をおびき出そうとしたのは、「けん銃で前件の取調官を撃ち殺すためだった。」と供述しているところ、その後の丙山質店に対する行動や大阪事件の内容を見ると、当時被告人が少なくとも強盗を企図していたことは推認できるというべきであるが、前件の取調官に対する恨みを晴らす目的があったか否かについては、その恨みの内容が漠然としている上、報復のための具体的行動をとったことの裏付けもなく、措信することができないといわざるを得ない。
4 京都事件の犯行態様について
また、京都事件の犯行態様につき、司法警察員に対する同月一一日付供述調書並びに検察官に対する同日付及び同月一六日付各供述調書では、「船岡山公園で偶然乙山巡査から職務質問を受け、同巡査から侮辱等されたので立腹し、所携のくわの柄で同巡査に殴りかかったところ、同巡査がけん銃を抜いて発砲したので、包丁で同巡査を何回も突き刺した。」旨供述し(但し、右検察官に対する同月一六日付供述調書では、「被告人が包丁を持って同巡査に体当たりするときに同巡査が一発撃ったような気がするが、はっきりしない。」と若干異なる供述をしている。)、同巡査からその携帯するけん銃を奪った経緯についても偶々入手したとしているのに対し、司法警察員に対する同月二五日付供述調書では、「警察官からけん銃を奪うため、船岡山公園の北側入口の公衆電話から十二坊派出所に電話をかけ、警察官に『不審な者が船岡山公園に上って行くのですぐ来てくれ。』と言ってこれをおびき出し、同公園の頂上に行って警察官を待ったが、待ちきれずに下りかけると警察官と会った。警察官が『ちょっと待ってくれ。』というのと同時に体当たりするようにして包丁で刺した。同巡査と揉み合ううち、同巡査がけん銃を抜き被告人に対して構えた上一発撃ったが、これを取り上げ、包丁で吊りひもを切断し、倒れている同巡査の背中を一、二メートルの所から撃ち、これが命中した。」と供述している。
このように供述内容に変遷が認められるのであるが乙山巡査が被告人を侮辱する等したというのは、その間の経緯に関する供述内容に照らして唐突さを拭えず、不自然といわなければならないこと、前掲関係証拠によると、乙山巡査着用のヘルメットやその身体には、くわの柄で殴打されたことを示す痕跡が存しないし、またその両手の爪には同巡査が発砲したことを示す火薬残滓がないと認められること、同巡査は、前記認定のとおり、何者かにおびき出されて京都事件の現場に行ったものと認めるべきであるが、その人物は京都事件の犯人と考えるのが相当であり、しかも、被告人は、京都事件の前日に二回にわたり同様の警察官をおびき出す行為を行ったものであること、おびき出しの電話も、船岡山公園と十二坊派出所との距離を考慮すると、同公園の近くからかけなければならないこと、その他前記の丑丘二男や丑森緑子の各証言内容及び「京都事件の概要」の箇所で認定した各事実に徴すると、右各司法警察員に対する供述調書中、同月二五日付のものの内容が同巡査が発砲したとの点を除き相対的に信用性が高いということができ、判示の事実に沿う限りにおいてこれを採用できるというべきであるが、これに反するその余の各供述調書の記載内容は、措信することができないといわざるを得ない
5 大阪事件に関する自白について
大阪事件に関しては、被告人の自白は概ね信用できるというべきであるが、問題となる点について付言すると、
(1) 大阪事件前に京阪モール商店街において黒色皮製手袋(左手用)を二つ買ったとの自白(検察官に対する同月一一日付及び司法警察員に対する同日付各供述調書)は、司法警察員作成の「美津濃株式会社京橋店から任意提出を受けたレシートテープの謄本作成について」と題する書面及び寅水三之の司法警察員に対する供述調書(いずれも不同意部分を除く)によると、そのとおり裏付けがあると認められ、信用できるというべきである。
(2) 大阪事件当時けん銃には弾丸が一発しか残っていなかったとの供述(検察官及び司法警察員に対する各同月一一日付供述調書)については、同事件前に実包を捨てたというのは不自然というべきであり、措信することができない。
(3) 同事件の被害者乙川二郎の言動につき、「撃てるものなら撃ってみろ、というようなことを言った。」との供述(司法警察員に対する同月一一日付供述調書)については、前記丙島一子の証言によると、右乙川は、終始被告人に対し言葉を発していないと認められるので、措信することができない。
6 赤色シャツに関する自白について
大阪事件当時被告人が着用していた赤色シャツにつき、被告人は、当初、「京都事件の後、新京極の洋品店で買って着替えた。」と供述し(検察官に対する同月一一日付及び司法警察員に対する同日付各供述調書)、その後「九月三日晩に四条通りの大丸から新京極の間の商店街の洋品店で、紺色ズボンと一緒に四、五〇〇〇円で買った。これは警察官を包丁で刺し殺す際に返り血が付くことが予想されたので、着替えるためだった。」と供述しているところ(検察官に対する同月二四日付供述調書四丁のもの)、右洋品店については裏付けがなく、また、右のように買った時期について変遷がある上、着替えた時期についても各供述間に差異があるので、いずれも措信することができないというべきである。
7 けん銃、包丁及び着衣の遺棄ないし隠匿場所に関する自白について
被告人は、本件犯行に用いたとする包丁やけん銃及び犯行時の着衣の処分状況につき、様々な供述をしているが、江戸川河川敷で発見された符二六号のナイロン製ボストンバッグ以外は一切発見されておらず、その供述内容も大きく変遷しているのであって、未だ真実の事情を供述していないものと断ぜざるを得ない。
第七その他の問題点について
一 被告人の足の裏の「まめ」による跛行について
被告人及び弁護人は、被告人は九月三日及び四日当時足の裏の「まめ」が破れ、痛みにより正常な歩行ができずに跛行していたもので、被告人に対する各目撃証人がこのことに言及していないのは、その各証言に係る人物が被告人ではないことを示している旨主張するところ、確かに前記の子海北子、子田白子及び子林赤子は、いずれも大阪事件後間もない時点で被告人が跛行しているのを目撃しており、足の裏の「まめ」の状況も現認し、同女らにおいてこれに対する手当てをしたことが認められ、また、鑑定人助川義寛は、「九月六日と七日に撮影された被告人の足の裏にある『まめ』が破れた傷の状況から見て、その傷は右撮影時から一週間以内にできたものであり、痛みを感じて跛行しても不思議ではない。」旨供述していることから(第四五回公判)、弁護人らの主張に一応の根拠はあるものの、右助川鑑定人の供述によると、右のような痛みは個人差がある上、運動能力には必ずしも大きな影響はないものと認められ、また、経験則上、精神の緊張の度合によって痛みを感じたり感じなかったりすることは十分ありうること、現に被告人が九月三日京都市内においてかなりの距離を歩いていることは証拠上明らかであること、大阪事件後、逮捕されるまでの間に相当の距離を歩いていることもまた証拠上明らかであり、右九月六日、七日の傷の状況と同月三日、四日の時点における傷の状況を同列に置くのは相当ではないこと等に徴すると、右の点が前記各目撃証言の信用性に影響を及ぼすことはないといわざるを得ない。
二 被告人が九月三日に京都に到着した時刻について
被告人は、九月三日に京都駅に到着したのは、午前一一時ころであり、それから前記丙丘春子や丙水五夫の証言する時刻に丙丘刃物金物店や丙川銃砲火薬店に行くことは不可能である旨主張するが、関係証拠によると、被告人は、同日、国鉄総武線成東駅午前五時一八分始発の電車に乗車したことが認められ、司法警察員作成の「被疑者の利用交通機関、時間関係等の裏付けについて」と題する書面によると、右始発電車と新幹線を利用すれば、午前一〇時ころには十分京都駅に到着しうることが認められる。
被告人の右弁解は、千葉駅と東京駅でそれぞれ覚せい剤の密売人と会っていたことや、足が痛くて速く歩けず、乗り換えに時間がかかったことを前提にするものであるが、覚せい剤密売人と会っていたという弁解は、公判段階で初めて供述したものである上、その供述には具体性や臨場感が看取されず、措信しえないものであり、また、足の痛みについては前述した通りであって、結局、被告人の右主張も根拠がないというべきである。
三 符二五号と同種、酷似の手提げ袋の入手経過について
弁護人及び被告人は、前記の符二五号と同種の、あるいはこれに酷似する手提げ袋を被告人が所持していたとの点につき、京都駅付近で符二五号の手提げ袋を販売している店は、京都タワービル内の「オパール」しかないところ、同店では、九月三日、四日の売上伝票にこれを販売したとの記載がなく、売れていないのであり、したがって被告人がこれを購入したことはなかった旨主張するが、当時右手提げ袋が、京都駅付近では右「オパール」でしか販売されていなかったのかどうかは、証拠上必ずしも明らかでない上、被告人がそのような手提げ袋を何らかの方法により入手したことが全くありえないという事情も認められないのであって、弁護人ら主張の右事実がこの点に関する前記の各認定を左右するものとは考えられない。
その他弁護人及び被告人の様々な主張にかんがみ関係証拠を精査しても前記認定に影響を及ぼすべき事情は見出せない。
第八結論
以上詳述したように、本件においては、被告人と本件各犯行との結びつきを裏付ける数々の間接事実が存在し、また、被告人の自白のうち、右間接事実によって裏付けられた部分は、その信用性も認められ、更に、大阪事件の目撃者丙島一子の識別供述も信用するに足るものであり、以上を総合すると、結局、判示各事実を認定するにつき、合理的疑いを容れる余地はないものというべきである。
(法令の適用)
被告人の判示第一及び第二の各行為はいずれも刑法二四〇条後段に、判示第三の所為中、けん銃所持の点は銃砲刀剣類所持等取締法三一条の二第一号、三条一項に、けん銃用実包所持の点は昭和六一年法律第五四号附則六条により同法による改正前の火薬類取締法五九条二号、二一条に各該当するところ、判示第三は、一個の行為で二個の罪名に触れる場合であるから、刑法五四条一項前段、一〇条により一罪として重い銃砲刀剣類所持等取締法違反の罪の刑で処断することとし、判示第一及び第二の各罪につき、後記量刑事情を勘案の上、所定刑中いずれも死刑を選択し、判示第三の罪につき所定刑中懲役刑を選択し、以上は刑法四五条前段の併合罪であるが、同法四六条一項、一〇条により、右死刑を選択した各罪のうち、犯情の重い判示第一の罪の死刑をもって処断し、その余の罪の刑を科さないこととして被告人を死刑に処し、訴訟費用については、刑事訴訟法一八一条一項但書を適用してこれを被告人に負担させないこととする。
(量刑の理由)
本件は、金員の強取を決意した被告人が、犯行に用いる凶器を得るため、京都市内において警察官をおびき出し、これを惨殺して実包入りのけん銃を強取した上、更にその約三時間後、大阪市内において金融会社の店舗に押し入り、従業員を右強取に係るけん銃で射殺して現金を強取したという連続強盗殺人の事犯であるが、
一 被告人が右犯行を決意するに至った動機については、被告人の真しな供述が得られず、十分解明されたとはいえないものの、前刑による約三年六箇月間の服役の後、約一年間の刑期を残して昭和五九年八月三〇日に仮釈放となり、保護司をはじめ、被告人の妻や実母、更には姉、兄弟らも被告人の更生を望みこれに助力する態勢にあったと見られ、被告人の自覚と努力次第でその後更生して地道な社会生活を送ることができた筈であり、また、当時特に経済的に差し迫った状況にあったとも認められないのに、仮出所してわずか五日後に、自己本位な物欲の赴くまま、しかもさしたる道義的抵抗感を抱くことなく、現職警察官の殺害とけん銃の強奪及び金融機関での強盗殺人などという重大事犯を企図実行したものであって、結局、右犯行に至る経緯、動機につき酌量すべき事情は何ら見出せないといわなければならない。
二 本件の犯行態様を見るに、京都事件については、事前に凶器を準備携行し、乙山巡査を現場まで電話でおびき出して実行したものであり、前日京都に到着後直ちにステンレス包丁やボウガンなどの凶器を購入し、同日夕方から夜にかけて二回にわたり警察官をおびき出そうとしたことも考慮すると、当初からけん銃を狙った計画的犯行であることは明らかである。また虚偽の申告をして警察官をおびき出し、これを待ち伏せるという方法自体、警ら係警察官の職務行為を利用した巧妙かつ卑劣なものというべきである。更に、殺害の具体的態様を見るに、現場に来た乙山巡査に対し、鋭利なステンレス包丁でその右大腿部や右肩内側等二〇数箇所を滅多突きにし、力尽きて路上にうつ伏せに倒れた同巡査の背後から、奪取したけん銃を発射して止めを刺すなど、その犯行は強固な確定的殺意に基づくものと認められる上、現場路上には血溜まりともいうべき血痕が比較的広い範囲に多数見られ、同巡査の携行物等が周囲に散乱するなど凄惨極まりなく、必死に抵抗する同巡査に対し、容赦することなく、執拗かつ強力な攻撃を加えたことが窺われ、その殺害の手段方法は、残虐かつ冷酷という外ない。
次いで大阪事件については、京都事件のわずか三時間余りの後、判示「ローンズ丙谷」店に赴き、いきなり被害者に右強取に係るけん銃を突きつけて金員を要求し、突然の事態を理解しえず冗談かと思っている無防備の被害者に対し、躊躇することなく身体の枢要部である前胸部を狙って至近距離からけん銃を発射し、同人を即死させたもので、これまた強固な確定的殺意に基づくことは明らかであり、人命を著しく軽視した冷酷、非情な犯行といわなければならない。
以上、本件犯行の態様は、終始自己の身勝手な目的のためには他人の生命を全く顧慮しないという憎むべき態度で貫かれており、各殺害方法も凶悪極まりないものである。
三 本件は、かけがえのない被害者両名の生命を奪ってけん銃や現金を強取した事犯であって、その結果が重大であることはいうまでもないところである。
乙山巡査は、大学卒業後京都府巡査として誠実に勤務し、周囲の評価も高く、被害当時三〇歳で妻と二人の幼児があり、新居を購入するなど堅実で希望に満ちた家庭生活を送っていたものであり、また、乙川二郎は、被害当時二三歳と若く、生い立ちに不遇な面があったにもかかわらず、当時まで真面目な勤労生活を送っていたものであり、別居中であった妻子との仲を改善し同居して再出発しようとの意欲を抱いていたものである。もとより両名とも犯行を誘発するような落度は全くなく、突然、被告人の凶行によって非業の死を余儀なくされた右両名の無念さは、察するに余りあるものといわなければならない。また、両名の遺族らの悲嘆のほどは計り知れず、現在もなお物心両面にわたって深刻な打撃を受けているものと推察される。その被害感情及び犯人に対する処罰感情には極めて厳しいものがあるが、その心情は十分理解しうるものといわなければならない。
四 本件は、白昼、まず京都市内で現職の警察官を惨殺してけん銃を奪い、いち早く大阪市内に移り、右けん銃を用いて金融機関の従業員を射殺して現金を奪うという連続強盗殺人事件であり、その手段の大胆さや凶悪さの故に世間の耳目を集め、地域住民に多大な衝撃と不安を与えたものである。特に警察官を殺害してけん銃を奪うという犯罪は、多くの場合そのけん銃を使用した第二、第三の犯罪の発生が予想されるものであり、またけん銃という有力な凶器を得る手段として模倣されると、深刻な社会不安を招きかねないことをも考慮すると、本件の社会的影響は誠に重大であるというべきである。
五 被告人は、捜査段階(一部起訴後を含む)において、一応の自白をし、悔悟の言葉も一応吐いてはいるが、凶器としたけん銃や包丁及び各犯行時の着衣の処分状況を最後まで明らかにせず、自白の内容に虚実取り混ぜるなど、心底改悛した上での自白とは考えられず、それまでの不自然な供述を維持することができずにやむを得ず認めるに至ったものといわざるを得ない。
そして、公判段階においては、全面否認に転じ、平然と不合理な弁解に終始して自己の罪責を免れようとしており、反省、悔悟の情が全く看取されないことは、誠に遺憾という外ない。
加えて被告人は、現職の警察官であった昭和五三年七月、署内からけん銃及び実包を盗み出した上、金員強取のため、郵便局に押し入って女性職員をけん銃で殴りつけたり、路上でバイクに乗った男性に発砲するなどの所為に及んだとして、昭和五六年に大阪高等裁判所で懲役七年に処せられた前科を有し、加古川刑務所で約三年六箇月余り服役して反省と矯正の機会を与えられ、その所内での成績が評価されて仮出獄の恩典に浴して出所しながら、更生の意欲や前刑に対する反省の情の片鱗をも見せずに、そのわずか五日後に、本件の如き凶悪重大事件を敢行したのであって、右経過等に徴すると、被告人に対してはもはや矯正教育の高架は期待しえず、その犯罪傾向や反社会的性格は改善すべくもないといわざるを得ない。
六 以上の量刑事情を総合すると、被告人の罪責は極めて重大であるといわなければならない。
そして、死刑が人間存在の根元である生命そのものを永遠に奪い去る冷厳な極刑であり、誠にやむを得ない場合における究極の刑罰であることにかんがみると、その適用は慎重に行われなければならないが、死刑制度を存置する現行法制の下では、犯行の罪質、動機、態様、ことに殺害の手段方法の執拗性・残虐性、結果の重大性ことに殺害された被害者の数、遺族の被害感情、社会的影響、犯人の年齢、前科、犯行後の情況等各般の情状を併せ考察したとき、その罪責が誠に重大であって、罪刑の均衡の見地からも一般予防の見地からも極刑がやむを得ないと認められる場合には、死刑の選択も許されるものと解すべきところ(最高裁判所昭和五八年七月八日第二小法廷判決)、当裁判所も右基準を踏まえ、刑の選択につき慎重に検討を重ねたが、前述した罪責の重大性に徴すると、被告人に対しては、死刑をもって臨む以外にないものと判断した次第である。
よって、主文のとおり判決する。
(裁判長裁判官 青木暢茂 裁判官 林正彦 裁判官 河田充規)